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ならぬことはならぬもの!会津人の心意気「什の教え」と斗南藩【半島をゆく 歴史解説編 下北半島 3】

『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

下北半島最北端、つまり本州最北端の大間町を訪ねた。会津斗南藩資料館の木村重忠さんを訪ねるためである。木村さんは、「斗南會津会」前会長であり、現在は顧問を務めておられる。

斗南會津会前会長の木村重忠さん

古武士を彷彿とさせる木村さんの名刺には、「斗南藩史生 木村重孝曾孫」と記されていた。お話によると、ご先祖は授産掛として大間に移り、旧斗南藩士の生活を支えたそうである。

資料館入り口に、「向陽處」という旗が立っていた。そのいわれは、2階の展示スペースに行けばわかった。陳列ケースに架けられた掛軸に、松平容保の雄渾な直筆で「向陽處」と書かれているのである。「いつかは陽のあたる処に出ることもあるであろう」という意味だそうだ。なるほど、朝敵の汚名を着せられた斗南藩士を激励するスローガンだったのだ。

松平容保の筆による「向陽處」の書

廃藩置県の後、旧斗南藩士のなかには「賊軍」の汚名をすすぐべく、茨の道を歩んだ者も多かった。

新政府は旧藩主とその家族の東京移住を命じた。この書は松平容大の名で旧藩士に送られた書

木村さんは、下北半島移住以来、藩士とその家族のために粉骨していた山川浩(大参事、1845~98年)と広沢安任(小参事、1830~91年)の2人の家老のその後について語って下さった。

お話しを参考に、彼らの生き様を追ってみたい。

陸軍軍人となった山川浩

山川浩は、山川大蔵(おおくら)と言った方が有名である。慶応4年(1868)8月の会津籠城戦で、日光口に出陣していた山川は、会津若松城(鶴ヶ城)が官軍によって攻撃を受けているとの報に接し急ぎ帰還したが、城が十重二十重に取り囲まれているという事態に直面する。そこで、一計を案じて入城を試みたのである。

会津地域の村々では、春分の日に民俗行事「彼岸囃子」(ひがんばやし、会津若松市重要無形民俗文化財)が盛んにおこなわれている。山川は、獅子舞とお囃子を演奏する百姓たちを先頭にして堂々と帰城した。これは、攻城軍の虚を突いたもので、城内の戦意はいや増した。入城戦の白眉といわれるこの行軍は、協力した小松村の若衆10人(戦後、全員無事帰村)を含めて、まったくの無傷だったという。

下北半島編第1回でも述べたように、官軍への降参、東京での謹慎、下北移住と藩政の開始、藩士とその家族への援助、山川は青年の家老ながら、幼君容大と斗南藩のために、身を粉にして働いた。

明治4年(1871)の廃藩置県の後の山川は、陸軍軍人としての道を選ぶ。その推薦人は、なんと会津攻城戦では敵方だった旧土佐藩の谷干城(たてき)である。大軍監職にあった谷は、山川の獅子奮迅のいくさ働きを見て、「敵ながらあっぱれ!」と感銘を受けていた。

山川が東京に出て蟄居していることを知り尋ねたのが、明治5年末のことだった。翌年、陸軍少将だった谷の推挙を受けて、山川は陸軍に仕官し、その年のうちに熊本鎮台司令長官となった谷のもと熊本に在勤していた。

会津武士、西南戦争に出陣

士族となった旧藩士たちは、多かれ少なかれ明治の改革を快く思わなかった。藩がなくなったたため、家禄が召し上げられたばかりか、苗字帯刀をはじめとする特権も失い、ただの一市民として放り出されたからである。特に、戊辰戦争に功のあった九州の諸藩の士族たちの不満は大きく、反乱が続発した。

明治7年2月、少佐となっていた山川は、佐賀の乱を鎮圧するため佐賀県庁(佐賀城)への出動を命ぜられた。不平士族4500人が佐賀城を取り巻いており、対する鎮台兵はわずか332人。山川は、会津若松城籠城以来7年後に、ふたたび城を枕にしての防衛戦を試みたのだ。そこで重傷を受けた後、久留米の病院で療養して帰京したが、左手が利かななったため休職を余儀なくされた。

神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、その後も不平士族の反乱は続いた。明治10年、西南戦争の報に接した山川は休職中にもかかわらず出陣の意を固めた。会津藩は、かつて薩摩藩とは公武合体という政治路線で意を通じていた。長州藩と急進派公家グループを取り除いた文久3年(1863)の「八月十八日の政変」も、両藩が協力して実現した。ところが、坂本龍馬の仲介で薩長連合が成立すると、掌を返すように会津藩を排撃し、最終的には会津戦争に至ったのである。

山川は、出陣にあたり詠んだ和歌が今に伝わる。

「薩摩人みよや東の丈夫(ますらお)が さげはく太刀の ときかにぶきか(薩摩人見よ。会津魂を秘めた軍人が佩く太刀で目にもの見せてやろう)」

まさに復讐の時節を得た会津武士の心意気が伝わってくる。この戦争において、山川は選抜隊を率いて谷が立て籠もる熊本城への入城に成功するという抜群の武功をあげている。

酪農に転じた広沢安任

山川は、後に陸軍少将に昇進する。しかし、このような会津人の出世を快く思わない者がいた。長州人の山県有朋である。陸軍閥の中心にいた彼は、賊軍だった会津藩の家老が国軍の中枢を占めることを嫌ったのである。

山川は、軍人でありながら教育者としての道を歩む。明治19年、文部大臣森有礼の推薦を受けて、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の初代校長に就任したのである。そこで導入したのが、軍隊式の規律正しい日常生活だ。戦前の師範学校は、全寮制で厳しい日常生活が課されたのであるが、そのレールを敷いたのが山川だった。厳格な山川ではあったが、人情家であり、会津人ばかりか高等師範学校卒業生も彼をながく慕ったという。

なお、幕末の政治史研究における第一級史料とみなされている『京都守護職始末』(東洋文庫など)は彼の著作である。正確には、彼の遺稿を東京・京都・九州の三帝国大学の総長を務めた実弟の健次郎が完成させたものだった。

広沢安任については、既に下北半島編第2回で、経済力豊かな弘前県への吸収合併を画策し、斗南に弘前・黒石・七戸・八戸の5県合併を政府に働きかけた結果、青森県が誕生したことについてふれている。広沢のその後は、軍人・教育者そして晩年は貴族院議員、従三位勲三等、男爵として活躍した山川とは、まったく対照的な道を歩んだ。

広沢の人生は、地元に残って旧斗南藩士救済のために尽くされたと言ってよい。明治5年に谷地頭(青森県三沢市)に洋式牧場「開牧社」を創設し、以後「広沢牧場」と名前を変えた後も一貫して地元の畜産・酪農業の発展に貢献した。

牧場に視察に来た大久保利通からは、参議、北海道開拓使長官などに任官するよう要請があったが、固辞したという。広沢牧場は、昭和60年(1985)末に閉鎖されるまで存続し、平成7年からは、地元の三沢市によって斗南藩記念観光村として広く開放されている。

「ならぬものはならぬのです」

木村さんは、山川と広沢の生き方を通じて会津人の心意気を語って下さった。それを支えたのが、藩士子弟に浸透した「什(じゅう)の教え」だったと仰った。NHK大河ドラマ「八重の桜」でも有名になったが、次に引用する。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

会津藩では、藩士が治者になるための基礎教育が「什」(じゅう、6~10歳の藩士子弟10人程度で編成されるグループ)の時期からおこなわれ、10歳になって藩校日新館に入学する。また、特に優秀な者については、江戸の昌平黌への留学も許されていた。人間としての陶冶を重んじた藩の家風が、山川や広沢を生んだと言われるのである。

確かに、薩摩藩や長州藩と異なって異国との貿易で巨万の利益を上げることはできず、漆器や朝鮮人参などの地味な特産品で藩経済を強化せねばならない事情もあったのであろう。人格教育が重んじられたのである。

調べてみると、旧斗南藩藩士とその家族のなかには、青森県下の教員になった者がきわめて多い。山川や広沢に影響を与えた秋月悌次郎(第五高等学校教授)もそうだったが、教育界への転身によって会津藩の教育が浸透したのである。なお「什の教え」の「ならぬことはならぬものです」は、平成14年に会津若松市が策定した「あいづっこ宣言」にも盛り込まれている。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」が単行本になりました。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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