文/藤田達生(三重大学教授)
「半島をゆく」国東半島編、第1回のテーマは八幡神だ。周知のように、源頼朝以来、歴代将軍が篤く信仰した武神である。京都では、室町将軍の信仰を集めた石清水八幡宮が有名である。
八幡神のデビューは、はるか古代、天平勝宝元年(749)末に、当時、奈良の都から見て西国の果てと認識されていた豊後宇佐の地から、八幡神が平城京へと入京した衝撃的な事件に遡る。
時あたかも、東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ 以下、大仏)の鋳造が完了した頃で、八幡神は神輿に乗って大仏に拝礼するために駆けつけたのだ。
八幡神の入京は、奈良時代において大仏開眼供養に次ぐビッグイベントだった。朝廷によって八幡神は一品(いつぽん)に奉られ、日本の神々の頂点に立つことになった。この出来事の意義について考えてみたい。
■「八幡神」が降臨した神の池
実は、今回の国東半島への旅には、別の楽しみがあった。もう30年以上も昔のこと、筆者が大学院生の頃、東京の学会で若手研究者の中心メンバーとしてご活躍されていた飯沼賢司(当時は早稲田大学文学部の助手)さんとの再会である。中世鎌倉の墓所「やぐら」の保存運動でお見かけして以来、行動する研究者の一人として注目してきた方である。現在、飯沼さんは、別府大学文学部の教授(文学部長)として内外で精力的に活躍されている。
飯沼さんとは、最初の訪問地、中津市に鎮座する薦(こも)神社で再会を果たした。当社は、境内の三角池(みすみいけ)を内宮、神殿を外宮とする。宇佐神宮の祖宮といわれる壮麗な神社である。飯沼さんのご案内で社務所にうかがい、『薦神社絵縁起』などの宝物を拝観した。
縁起には、中央に角のように描かれた三本の川が三角池に注ぎ込んでおり、薦が描かれているのが象徴的だった。池辺には、薦刈り神事の由緒を示す大神諸男(おおがのもろお)と池守の翁と、その右手には神社に向かう勅使の一行が見える。
それから、私たちは境内に向かった。当社のシンボルと言ってよい朱色鮮やかな裳階(もこし)付き三間一戸二重門の神門(国指定重要文化財)は、元和8年(1622)に中津藩主細川忠興が再建して以来、小笠原氏・奥平氏と歴代藩主家が維持・管理してきた。神門をくぐりお参りし、そのまま三角池へと進んだ。
まず、広々とした池のなかに立つ鳥居が目を引いた。この池端に、八幡神が降臨したとの伝承がある。飯沼さんからは、宇佐八幡宮のご神体としての薦についてのお話をうかがった。薦は、三角池のものを刈り取って、束ねて枕に仕立てるそうである。私たちは鳥居の正面に立ち、しばらくその景色にみとれた。
かつての宇佐神宮には、「行幸会」と称するご神体である薦枕を奉じる祭礼があった。薦枕を入れ替える聖地巡幸の儀式として6年に1度、卯の年と酉の年に行なわれてきたと伝えられている。それは、養老4年(720)の隼人征伐に際して三角池に八幡大神が現れたことに由来するもので、その依り代としての薦枕が位置づけられていた。
池の畔に立った飯沼さんは、辺境の地で国家神となる八幡神が出現したことの意味について力説された。伊勢神にしても春日神のもとになった常陸の鹿島神も、畿内とは遠く離れた境界の神であったと言われる。確かにそうなのである。八幡神も、典型的な境界の神なのだ。
■神々が仏教を慕って入京するというストーリー
八幡神の出現した宇佐の地は、国東半島の付け根に位置する。ここは、古代には「国崎」あるいは「国前(くにさき)」と記された。古代ヤマト国家の国の先端に位置する所だったのである。なお、「国東」と表記されるようになるのは、鎌倉時代からだそうだ。ここには、「豊国(とよのくに)」があり、南の隼人の国と接していた。八幡神は、ヤマト国家の西の国境に出現した神であり、古代国家の成立と深く関係したのであった。
現在、宇佐神宮は、隼人の国の方向を向くように社殿が鎮座している。ヤマト国を護るように立っているのである。飯沼さんは、律令国家の成立とともに国境の神として政治的に登場したと解釈されるのである。
豊国から隼人のいる大隅国への入植が、隼人の蜂起を引き起した。養老3年(719)には隼人が蜂起し、豊前の国司が軍隊を率いて救援に向かうが、兵士たちが奉じたのが八幡神だった。宇佐八幡宮の神官が作り出した薦枕をご神体として神輿に乗せ、大隅国に進軍したのであった。これが、宇佐神宮のご神体の薦枕の由来である。
隼人の反乱の鎮圧後、神亀2年(725)に小倉山を開いて宇佐神宮の社殿が造営された。これが、現在の宇佐神宮の社殿の原型と言われる。それは、ほぼ南を向き、御許山(おもとやま)に対面するように建てられている。豊前と豊後の国境の山であり、八幡神が降り立ったとも言われるこの山を意識した配置である。
八幡神が国家神へと位置づけられるのが、先述した天平勝宝元年の八幡神の入京である。都人からすれば、八幡神は突然出現した新しい神であった。12月17日に大和平群郡から入京し、梨原宮に造られた新殿を神宮とし、27日には八幡神の輿が東大寺に入った。
当寺には、聖武太上天皇(上皇)に光明皇太后や孝謙天皇が行幸し、百官・氏人がことごとく会した。5000人の僧侶によって、読経が行なわれ、様々な舞が披露された。八幡神は、まさに賓客としてもてなされ、国家神へとその地位を急上昇させたのであった。
これは、聖武太上天皇の演出だった。八幡神の東大寺入りには、禰宜である大神社女の乗った紫色の輿が使用された。これが、文献で確認できる日本最古の神輿である。九州の一地方の神官が乗った輿が、すなわち一地方神が大仏を拝み、それが国家的に位置づけられたというのは、当然のこととして、それを企てた人物と人脈が存在する。
聖武天皇は、彼が理想とする仏教国家を実現することに一生を費やした。大仏建立の大事業は、そもそも近江信楽の甲賀寺(滋賀県甲賀市)で始められたものである。天皇が信任する行基と彼を中心とする集団が、この国家的プロジェクトを進めた。行基たちの集団は、最新の技術をもっており、貧民救済・治水・架橋などの社会事業を推進した。
天皇は、行基に深く帰依し大仏造立事業を任せる。紫香楽宮における大仏造立は失敗し、遷都した平城京の東大寺で再開されたのだった。しかし、行基は大仏造立中の天平21年に81歳で入滅してしまった。
聖武太上天皇は、行基にかわる存在として八幡神に着目し、天皇支配下の国土の片隅から神々が仏教を慕って入京するというストーリーをイベントのなかで主張したかった。隼人征伐に活躍した武神八幡神が、わざわざ入京して大仏を拝顔したという儀式を演出したのである。
飯沼さんから、八幡神に関するご研究の一端をお聞きしながら、このような一地方神から国家神への道を理解した。変わらぬ学問に対する情熱と、地元へのみなぎる愛情を感じた一日だった。30年前の雄姿が、再び宇佐の地によみがえったような気がした。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
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『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
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