文/矢島裕紀彦
西郷隆盛は多くの名前を有した。幼名は小吉。その後、吉之助、吉之介、吉兵衛などの通称を名乗った。他に菊池源吾、大島三右衛門などの変名も用いた。そして、もうひとつ、彼には南洲という雅号があった。西郷隆盛の言行録に『南洲翁遺訓』のタイトルがつけられたのは、もちろんこの号による。
『南洲翁遺訓』の一書は、西郷と庄内藩との交流から誕生した。戊辰戦争の折、庄内を含む奥羽の諸藩は最後まで新政府軍に抵抗し闘った。西郷はその新政府軍を指揮する参謀だったが、敗者となった庄内に寛大だった。
庄内藩主・酒井忠篤(ただすみ)の使者が西郷の陣屋を訪れて正式に降伏の礼をとった際も、西郷はこれをうやうやしく迎えた。あとで西郷に「余りにへりくだり過ぎ」と苦言を呈する者もいたほどであったという。その後の処置も、温情にあふれていた。
明治2年(1869)、酒井忠篤は旧藩士70人ほどを引き連れて鹿児島を訪れた。西郷の身辺で100 余日を過ごし、改めてその人となりと言動に親しく接し教えを受けた。それを、庄内に帰郷してのち、旧藩士の菅実秀、三矢藤太郎、石川静正らが中心になって一書にまとめた。これが、『南洲翁遺訓』の原形である。
はじめ筆写されて広まり、明治23年(1890)になってから印刷物として刊行された。本文四十一則、追加、補遺まで含め全五十三則からなる。
その『南洲翁遺訓』の四則の冒頭に、こんな言葉が掲げられている。
「万人の上に位する者、己れを慎み、品行を正〔ただし)くし驕者を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し」
--西郷隆盛
国民の上に立つ政治家や役人は、己を慎んで品行方正、驕りたかぶることなく、無駄遣いをせず、職務に精励して手本となり、人民がその仕事ぶりの大変さを気の毒と思うほどでなければ、政治は行き届かない、というのである。このことばは、そのまま現代にも当てはまるものだろう。
『南洲翁遺訓』の四則は、さらにこう続く。
「然るに草創の始(はじめ)に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷(まじき)也。戊辰の義戦も偏(ひと)へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける」
維新創業の大事なときなのに、政府の要職に就く薩長人の中には、すでに住まいや衣服を華美にしたり、妾をかこったり、私的な蓄財に走っているような例も少なくなかったのだろう。そんなありさまでは、義戦であったはずの戊辰の戦もただ薩摩や長州の利を貪るための私戦になってしまい、世間に対しても戦死者に対しても申し訳ない。西郷はそう語って涙ぐんだのである。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。
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