文/内田和浩
維新の巨星、西郷隆盛(さいごう・たかもり)。その最後の日に至る模様を、手短にご紹介しよう。
■西南戦争はじまる
明治新政府内で「征韓論」をめぐって大久保利通、岩倉具視らと対立した西郷隆盛は、明治6年(1873)10月23日、参議の職を辞して下野し、青年育成を目的として鹿児島に私学校を創設した。そして県令・大山綱良の全面的支援のもとに、県下の官吏や警部・巡査には私学校の生徒が選任されるようになった。
その結果、鹿児島は、県内で徴収された税金を国庫に納めず、人事も中央に従わないという、私学校による独立国家のような様相を呈した。
これを政府が放っておくはずはない。明治10年(1877)1月、政府による挑発行為によって私学校の生徒たちは暴徒化した。ここに西郷は私学校の生徒に担がれて挙兵せざるをえなくなり、2月15日、「政府に尋問の筋これあり」として薩軍1万3000人は50年ぶりの大雪を踏んで鹿児島を出発した。西南戦争のはじまりである。
■敗退の途――田原坂から城山へ
しかし、薩軍は熊本鎮台(熊本城)を落とせず、主力は北上して政府軍と田原坂で激戦のうえ敗北。その後も劣勢が続き、日向(宮崎県)を敗走したのちに軍を解散する。
西郷は、最後まで従いたいと希望する372名とともに九州山地を踏み越え、同年9月1日に鹿児島に突入、城山に籠もった。
政府軍の山県有朋参軍は守備を第一、攻撃を第二とする方針を定め、城山の周囲を蟻一匹這い出る隙もないほど厳重に包囲した。西郷方の薩軍372人に対して、政府軍は総勢約5万人……。日本の戦史のなかでも、これほどの戦力差は珍しい。
西郷ら薩軍本営は、はじめ城山の頂上付近にいたが、砲撃が激しくなったため、東側の岩崎谷に横穴を穿ってそこに移動した。