文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「柊(ひいらぎ)を幸多かれと飾りけり」
--夏目漱石
文部省派遣留学生の夏目漱石がはるばる海を越えてロンドンへ到着したのは、明治33年(1900)10月28日のことだった。その年の暮れ、12月26日付で、漱石は病床にある親友の正岡子規あてに絵葉書を送った。余白には、細かい字でびっしりと、年賀の挨拶とともに現地のクリスマスの模様を書き込んだ。
「その後、御病気いかが、小生東京の深川の如き辺鄙(へんぴ)に引きこもり、勉学致しおり候。買いたきものは書籍なれど、ほしきものは大概三、四十円以上にて手がつけかね候。
詳細なる手紙差し上げたくは候えども、何分にも多忙故、ハガキにて御免こうむり候。御地は年の暮やら新年やらにて、さぞかし賑やかな事と存じ候。当地は昨日がクリスマスにて、はじめて英国のクリスマスに出くわし申し候。
柊(ひいらぎ)を幸多かれと飾りけり
屠蘇なくて酔はざる春やおぼつかな」
末尾に書き添えた2句の俳句に、見知らぬ異国の地で初めて年越しをしようとする漱石の気分が、よくあらわれている。
このあとも、漱石は、病床の子規を慰めようと、勉強の合間を縫ってかなり長文の手紙を何通か書き送った。それに対して、子規からは、たとえば、明治34年(1901)11月6日付でこんな手紙が届いている。
「いつか寄越してくれた君の手紙は非常に面白かった。近来僕を喜ばせたものの随一だ。(略)もし書けるなら、僕の目の明いてる内に、今一便寄越してくれぬか」
この頃、子規の病躯は深刻な苦痛に満ちていた。苦しさの余り自殺してしまいたい衝動に駆られるほどだった。そんな衝動と闘いながら、子規は漱石からの便りを心待ちにしていたのである。そして、これが子規から漱石への最後の手紙となった。子規はその後は手紙も書けなくなり、漱石の帰国前、明治35年(1902)9月19日に絶命したのである。
帰国後の漱石は、東大の教壇に立っていたが、明治38年(1905)1月、小説『吾輩は猫である』を発表して文壇の注目を集める。この小説を発表した雑誌は、正岡子規が高浜虚子に託していった文芸俳句雑誌『ホトトギス』だった。1回きりのつもりで書いたこの小説は、世間の大評判を受けて、2回、3回、4回と、次々に続篇が書かれ、上・中・下3冊の単行本も刊行された。漱石は一躍、文壇の寵児となった。その『吾輩は猫である』の単行本、中篇の序文に漱石はこんなふうに書いている。
「余がロンドンにいる時、亡友子規の病を慰めるため、当時かの地の模様を書いて遥々(はるばる)と二、三回長い消息をした。無聊に苦しんでいた子規は、余の書簡を見て大いに面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。(略)憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく、息を引き取ったのである。(略)『猫』は余を有名にした第一の作物である。有名になったことが、さほどに自慢にはならぬが、『墨汁一滴』のうちで暗に余を激励した故人に対しては、この作を地下に寄するのが、あるいは恰好かも知れぬ」
要は、漱石は亡き友・正岡子規への思いを胸に抱いて、この処女小説を書いたというのだ。この『吾輩は猫である』を出発点に、漱石は次々と名作を紡ぎ、日本を代表する文豪となっていく。そんな漱石の傍らには、子規からロンドンに送られてきた最後の手紙と、子規の描いた「あずま菊」のスケッチを一幅に仕立てた掛け軸が、生涯にわたって大切に所蔵されていたという。
正岡子規の姿は、死してなお、漱石の心の中にずっと生き続け、創作に悩む漱石を励ましつづけていたのである。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。
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