文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「気に入らないこと、癪に障ること、憤慨すべきことは塵芥の如くたくさんあります。それを清めることは人間の力でできません。それと戦うよりもそれをゆるすことが人間として立派なものならば、できるだけそちらの方の修養をお互いにしたいと思いますがどうでしょう」
--夏目漱石

大正4年(1915)6月15日付で、夏目漱石が武者小路実篤に送った手紙からの引用である。

手紙の冒頭に「御手紙拝見しました」とあるように、これは武者小路が漱石に送った書簡に対する返書であった。「気に入らないこと、癪に障ること、憤慨すべきことは塵芥の如くたくさんあります」という文面からして、武者小路は何かムシャクシャすることがあって、その怒りや不満を漱石にぶつけたことが読者にも想像できるだろう。

実はこの少しあと、6月28日から30日にかけて、武者小路実篤の二幕ものの戯曲『わしも知らない』が、帝国劇場における文芸座の第1回公演として上演されることになっていた。それに関する案内記事がこの日の東京朝日新聞に掲載され、そこに、この戯曲が「サロメを東洋式に作り変えたようなもの」と書かれていたのである。自分の作品が舞台になるのは初めてのことで些か神経過敏になっていたこともあり、武者小路は事実とは異なるこの案内記事に、なんだかひやかし半分の悪意のようなものまで感じた。

武者小路はそのことを、以前から手紙を通じて交流のあった漱石に訴えた。漱石から東京朝日新聞に連絡し、訂正記事を出してもらえるよう取り計らってもらえないかという要請までした。

20歳近く年下の武者小路のそんな訴求を、漱石はやんわりと受けとめて、こんなふうに語りかける。

自分もその文章は見たが、さほど気にするようなものではないと思う。あなたのような正直な人から見れば腹も立つだろうが、批評文や紹介文はえてしてそんなもので、自分も『吾輩は猫である』を書いたときには、何かの翻案か盗作かでもあるように随分と誹謗中傷を受けた。際限もないので、近頃は、そうしたことに気を悩ませたり、気を腐らせたりするのはやめて、超然たる気持ちでいるようにしている。

そんな自己体験を披瀝して、「戦うよりも、ゆるすこと」と寛容の心を説き聞かせる漱石なのである。

とはいえ、漱石は、武者小路のために何もしないというのではない。武者小路の抗議の手紙は、朝日新聞の社会部長の山本松之助に送って「よろしく頼む」と伝えておく、とも返答している。ただ、自分には記事を取り消させるだけの権力はないし、おそらく編集部の方でも取り消すほどの大きな問題とは思わないに違いない、と事細かに説明するのである。

そして、最後には、一方的に説教臭くならないよう、漱石はこんな一文も書き添えた。

「私は年に合わせて気の若い方ですが、近年漸くそっちの方角に足を向け出しました。時勢は私よりも先に立っています。あなたがそちらへ眼をつけるようになるのは今の私よりずっと若い時分の事だろうと信じます」

武者小路は漱石の厚意に感謝し、すぐに御礼の手紙を書いた。

後年、漱石の訃報に接し、保管してあった漱石からのこの手紙を読み直した武者小路実篤は、漱石の温かな心にふれ直し、思わず涙ぐんだという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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