文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「朝は少々早く起きるように注意ありたし」
--夏目漱石

ロンドン留学中の夏目漱石が、東京で留守をまもる妻・鏡子に送った手紙(明治35年5月14日付)の中に書いたことばである。鏡子は朝寝坊なのである。

鏡子は、ちょっとしたことでは動じない大らかな性格であった。謹厳実直の底に、時として鋭敏過ぎる働き方をする神経を抱え込んだ漱石と添い遂げられたのも、その人柄によるところが大きかったように思える。

とはいえ、いつも朝寝坊ばかりでは、一家の主婦としては、やはりちと具合が悪い。漱石は、「夏目の奥さんは朝九時十時迄寝るとあっては少々外聞わるき心地せらる。其許(そこもと)は如何考えらるるや」と注意換気し、「つとめて己れの弊を除くは人間第一の義
務なり。かつ早起きは健康上に必要なり」と理詰めに諭していく。

さらに説得力を持たせるため、子供を引き合いに出しこんな言い方もした。

「小児の教育上にもよろしからざる結果ありと思う。筆などが成人して嫁に行ってやはり九時十時迄寝るとあっては、余は未来の婿に対して甚だ申し訳なき心地せらる」

漱石は慶応3年(1867)生まれ、鏡子は明治9年(1877)生まれだから、年齢差は10歳。そうしたこともあって、漱石はしばしば年若い妻を教え導くようなことばをかけるのである。

鏡子にいわせれば、自分の朝寝坊は怠けたりのんびりしていたりするせいではなく、体質的なもので致し方ない、無理して早起きすると却って一日中頭が重くて具合が悪い、ということになるのだが、面白いのは、どこかへ遊びに出掛けるような時には早起きを全く苦にする様子のないことだった。

作家の観察眼がそれを見逃すはずもなく、ある日の漱石は苦笑まじりに日記にこんな一文をも綴っている。

「朝寝も彼女の特色である。しかし何処かへ行く約束でもある時は驚ろくべく早く起きる。常は早起きをすると一日頭が悪いとか云っているが、こんな日に限ぎって終日外出して帰って来ても寝足りないで頭が痛いなどと云った試しがない」(大正3年11月8日)

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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