今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「あい子と一所(いっしょ)に寝る。夜中にわが腹を蹴る事幾度なるを知らず。降参」
--夏目漱石
上に掲げたのは、夏目漱石が明治42年(1909)3月29日の日記の中に綴った記述である。「あい子」とあるのは、漱石の四女・愛子のこと。愛子は明治38年(1905)12月14日生まれだから、この頃3歳3か月の可愛い盛り。漱石もつい添い寝してみたものの、夜中に何度となく腹を蹴飛ばされる。それでも、なおかつ上機嫌の漱石先生なのである。「降参」の二文字に、愛情があふれている。
漱石が結婚したのは明治29年(1896)6月、29歳のときである。相手は貴族院書記官長・中根重一の長女の鏡子、19歳だった。
長女の筆子が生まれるのは、3年後の明治32年(1899)5月。以降、夫婦の間には、次女・恒子、三女・栄子、四女・愛子、長男・純一、次男・伸六、五女・ひな子と、7人の子供が生まれている。
このうち、四女の愛子は、他の兄弟の目から見ても、とりわけ漱石に目をかけてもらっているように見えたのだろうか。次男の伸六は随筆『父・夏目漱石』の中で、「父はこの姉を一番可愛がっていたようである」とし、こうも綴る。
「この姉はよく父と一緒に寝たりしていた。恐らく、私等兄弟の中で、ほとんど父から怒られたことのないのは、この姉だけで、それはむしろ、それ自身私等には非常に不思議な事実としか思えないのである」
明治の厳父としてはごく普通のことだろうが、漱石は時に子供たちを厳しく叱ることもあった。そんな中でも、愛子はほとんど叱られることがなかったようなのである。
実は5人生まれた娘のうち、五女・ひな子は1歳半で夭逝している。そのため、愛子は一番下の女の子として育った。男親が無意識のうちに末の娘をもっとも可愛がるというのは、ありがちなことかもしれない。
愛子の方も父親によくなついた。鏡子の留守中、胃が悪いくせに何か甘いものをつまみたくなって茶の間で漱石がゴソゴソやっていると、菓子の隠し場所を教えてくれるのも愛子だったという。
いずれにしろ、漱石はかなりの子供好きだった。ある日の日記には「もし鉅万(きょまん)の富を積まば子供は二十人でも三十人でも多々益(ますます)可なり」と書いている。
つまりは、もし自分が大金持ちで経済的余裕があるならば、子供は20人でも30人でもほしい、多ければ多いほどいい。そう語っている漱石なのである。
今日、平成29年(2017)9月24日、漱石が家族と暮らし、多くの文学作品を紡いだ東京・早稲田南町の旧居跡に、「新宿区立漱石山房記念館」がオープンする。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。