文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「一 梅ボシ、福神漬」
--夏目漱石

宮城県仙台市の東北大学附属図書館漱石文庫に、夏目漱石の英国留学時の2冊の日記が残されている。いわゆる「渡航日記」と「滞英日記」。取材のために東北大を訪れ、その現物を見せてもらったことがある。どちらも、留学生・漱石の足跡を知る上での貴重な原資料だ。

茶色の革表紙の渡航日記の冒頭には、出発前の身支度について記したメモ書きがあり、興味を引かれた。見ていくと、衣類や手拭い、傘、薬、名刺、剃刀(髪ソリ)などの必需品が列挙されたメモの中ほどに、「一 梅ボシ、福神漬」の一行があった。

不馴れな海外生活に際して、誰もが気にかける「味覚」の問題を、のちの文豪もはっきりと意識していたことがわかる。学生時代は、親友の正岡子規と本郷界隈の西洋料理屋に颯爽と繰り出した漱石も、2年間の西洋留学となると、つい梅干しを持参したくなったのだろう。

英国滞在1年半を経た明治35年(1902)4月17日には、漱石は、鏡子夫人あての書簡でこうも訴えている。

「日本に帰りての第一の楽みは、蕎麦を食い日本米を食い、日本服をきて日のあたる縁側に寝転んで庭でも見る、是が願に候」

母国での素朴な日常が、郷愁とともに輝きを帯び、胸にこみあげていたのである。

一方、緑色のクロス貼表紙の滞英日記、明治34年(1901)1月4日の項には、こんな一節も読めた。

「倫敦ノ町ヲ散歩シテ試ミニ痰ヲ吐キテ見ヨ。真黒ナル塊リノ出ルニ驚クベシ。何百万ノ市民ハ此煤烟ト此塵埃ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺蔵ヲ染メツツアルナリ」

産業革命が副作用としてもたらした近代都市ロンドンの大気汚染は、なかなか深刻なものだった。それが、この記述からも窺える。

ここでも漱石は、故国で当り前のように享受していた清々しい空気のありがたさを、改めて実感せざるを得なかっただろう。

漱石は西洋体験を経て、東洋的美質の再発見をしていた。そんな言い方もできそうだ。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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