今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「小生は今日まで、ただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはり、ただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って、私は博士の学位を頂きたくないのであります」
--夏目漱石
明治44年(1911)2月21日付で、文部省の専門学務局長の福原鐐二郎あてに出した夏目漱石の手紙の中の一節。肩書などは要らない。自分は自分の足で、この人生を歩みきるという強い意志表示であっただろう。
前年の秋、漱石は修善寺で大量の吐血をし、辛くも一命をとりとめる「修善寺の大患」を経験した。帰京後もすぐには自宅へ戻れず、長与胃腸病院に入院。入院生活は年をまたぎ、2月26日までつづいた。
この入院中、文部省で文学博士会が開かれ、幸田露伴、佐佐木信綱、森魁南、有賀長雄とともに漱石を文学博士に推すことを決定した。その学位(博士)の授与式に出席するよう、漱石の留守宅へ通知が届いた。それが、2月20日の夜10時頃の出来事であった。
翌日、この知らせを聞いて、すぐに漱石が断りのためにしたためたのが、掲出の手紙である。
ところが、漱石の手紙が先方へ届く前に、文部省からの使いが、漱石を文学博士に認定したという証書に当たる「学位記」を漱石邸に届けてきた。漱石は門弟の森田草平に頼み、この証書も返させた。
博士号辞退は異例のことで、世間の耳目を集めた。賛否両論が渦巻く中には、ただのパフォーマンスだと決めつける声もあった。
顧みれば、漱石はこうした権威づけを以前から嫌っていた。「個人の自由」や「学問の独立」という事柄とのからみもあったが、それ以上に想起されるべきは、「新聞屋も商売ならば、大学屋も商売である」と啖呵を切って大学を辞め朝日新聞に入社した漱石の反骨心であり、強烈な自我意識だろう。
文筆をもって世に立つ。それもやるからには、「只一日で読み捨てるもの」でなく「僕の事業として後世に残るもの」を書くという覚悟を決めて、お上丸抱えの帝国大学に背を向け、神経や胃壁をすり減らして物書きとして奮励してきた身である。文部省からの一方的な通知に、「何をいまさら博士なんぞ」という思いが胸の内からあふれ出てきていたに違いない。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。