今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は、世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです」
--夏目漱石
夏目漱石が名作『心』の中に綴り込んだ一節。誰しもが、内面に善と悪の要素を抱えている。ごく普通の人間の内側に悪人がいる。小説の中では、人間の中にひそむ利己心や欲得が問題となるが、外側からの力学が働くこともままあるだろう。
以前、元日本銀行理事で評論家の吉野俊彦さんにお会いして、高橋是清の赤字公債発行による金融緩和策について伺ったことがある。吉野さんは、ケインズ経済学でいうところのフル・エンプロイメント(完全雇用)ではない状況を見極めての施策という前置きをして、「高橋さんの中には、世の中が不景気で犯罪に走る者がふえては困る、ということがあったんだと思う」と語っていた。
まっとうに働こうとしてもどうしても職が得られなければ、食べるために悪事に走ることもある。普通の人間の中の悪が、否応なしに頭をもたげるのだ。
経済政策を最優先課題に掲げるいまの政権に、高橋是清の如く持たざる弱者に注ぐ視線がどのくらい含みこまれているのか。カジノ法案を強引に通過させるなど、ともすると、どこか偏った進み方をしていないのか。マスコミや有権者は、きちんと見ていく必要があるのだろう。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。