サライ世代の範とすべき人生の先達の生き様を毎号お伝えしている『サライ』本誌連載「サライ・インタビュー」。2018年新春企画として、昨年本誌に掲載されたインタビューの数々を紹介する。

 桑田ミサオさん
(くわた・みさお、笹餅製造者)

――笹餅作り30年、75歳で起業

「皆さんに喜んでもらうのが、私にとって一番大事なこと。
だから働けるだけ働きます」

撮影/宮地 工

※この記事は『サライ』本誌2017年10月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

── 笹餅は毎日、つくっているのですか。

「笹餅をつくるのは週2回、月曜と金曜です。小豆の餡を炊いたり、もち米を粉に挽く日もあるので、毎日はつくれません。製粉所に頼むと1俵8000円かかりますから、自家製粉です。それから、餅を包むのに笹の葉が要るので、近所へ笹を採りにも行きます。ぜんぶ、私ひとりでします。

週に2回、600個つくる笹餅は、地元の金木町にあるスーパーストアさんに納める分です。それとは別に、全国から注文がありますので、頑張ってつくっています(※現在、新規の注文は受けられません。)」

──餡が中に入っている餅ではないのですね。

「青森の笹餅は、粉に挽いたもち米と小豆の餡を混ぜて蒸しあげてから、熱いうちに丸めて笹の葉で包みます。それをもう一度蒸すのが、私の作り方。そうすると笹がいつまでも青々としてきれいです。“津軽ならではの味だね”って、皆さん言ってくれます。

昔は冷蔵庫も冷凍庫もなかったけど、殺菌力が強い笹の葉で包んだお餅は夏場でも日持ちがする。母もよくつくってくれたし、私も5~6歳頃から傍で手伝っていた記憶があります。このへんは神さまの行事がいっぱいあって、昔は笹餅に限らず、お団子や赤飯、おはぎや粟餅をつくっては、2軒両隣にあげたり、もらったりしていたものなんです」

──全国に桑田さんのファンがいます。

「お陰様でテレビや新聞・雑誌で紹介されて、農林水産大臣賞もいただきましたので県庁のほうにも問い合わせが随分いったそうです。また、津軽鉄道の列車に乗り、私とお友達で笹餅を売っていたこともあって、そのときのお客さんからの注文もあります。

なかには、笹餅が美味しかったお礼だといって“笹餅の名人 桑田ミサオさん”という刺繡入りの半纏を贈ってくれた方もいます。ありがたく着させてもらってますが、何だか申し訳なくてね。お礼に青森のリンゴを送らせてもらいました。

この前は、テレビで私のことを観たという若い娘さんから“笹餅を5つ送ってください”と頼まれました。でも、送料が別に600円かかってしまうのが申し訳なくて。お餅の代金はいいので、送料だけいただきますって言いました」(笑)

──それでは商売になりませんね。

「いいの、いいの。たくさん儲けなくてもいい。儲けが少し出ると、ひとり暮らしのお婆ちゃんや老人ホームにいる人たちに“今日は粟餅つくったから”とか“しとぎ餅(※餡を餅で包み、両面を焼いた餅。)、味見して”と持っていって食べてもらうんです。もともと笹餅づくりは、みんなの喜ぶ顔を見たいと思って始めたことですから」

──いつから笹餅づくりを始めたのですか。

「60歳で保育所の仕事を辞めてからです。農協の婦人部の人から“無人販売を始めるので協力してほしい”と言われ、お餅や赤飯をつくって出したのが最初です。そして、特別養護老人ホームの慰問にも誘われ、粟餅を120個つくって持っていきました。そうしたら、お婆ちゃんたちが涙を流して喜んでくれた。“ああ、こんなに喜んでくれるのなら、私はこれを一生続けよう”と思ったんです。そのうち、いろんなとこから注文がくるようになって、いまの作業場をつくって会社にしたのが75歳のときです。会社といっても私ひとりですけどね」(笑)

──75歳で起業とはすごいですね。

「金木町のスーパーストアさんから“お客さんの要望が多くて、笹餅を売らせてほしい”と言われたんです。そうなると、ちゃんと商売としての届けも出して、衛生上の検査も受けないといけない。でも、みんなが喜んでくれるならと思って、作業場と倉庫をつくり、井戸も掘り製粉機も買ったんです。

自宅は、作業場から自転車で5分くらいのところにあります。以前は夜中の1時、2時でも平気で行き来してたんですが、私も90歳になったし、夜道で転びでもしたら大変なので、いまは作業場で寝泊まりしてます」

──ひとりで寂しくないですか。

「寂しいですよ(笑)。だけど、孫たちがいつも心配してくれてね。雨が降れば“大丈夫か”雷が鳴れば“表さ出るな”って、様子を見に寄ってくれる。私には息子がひとり、娘がひとり、孫が4人います。孫もいちばん末っ子の男の子が、私のことをいつも気にかけてくれて、買い物もすべてしてくれるんです」

──どのような子供時代でしたか。

「私は4人兄妹で、いちばん下です。父親は母のお腹にいるときに亡くなったから、顔も知りません。母に教わったのは、父は裕福な旧家の跡取りだったので働くことはしなかったそうです。朝から友達が5~6人来ては飲んだり食べたりしたので、父の代で家屋敷を全部なくしてしまった。それでも外へ出かければみんなに振る舞い、財布を空にして帰ってくる。その空財布をお仏壇に上げて“今日も無事に過ごせました。ありがとうございました”って手を合わせる人だったそうです」

──お母さんは苦労されたでしょうね。

「私もね、母親は苦労したんだべなとずっと思ってました。だけど、いま、この歳になってみれば“あぁ、なんて素晴らしい父親だったんだべなあ”って、思うようになりました。だって、母はひとことも父を悪く言ったことがなかった。自分の持っているものを、惜しげもなくいつもみんなに分け与え続けた父を母はどこまでも誇りに思っていたんです」

──子供の頃は病弱だったそうですね。

「身体が弱くてね。学校さ入ってからも、腹病みで1週間くらいすぐ休んでしまう。だから、勉強さついてゆくことができなかった。19歳で結婚し、24歳で長男を産んだときは、当時は死病といわれた産後の肋膜炎に罹り、助かりっこないと言われました。ペニシリンなどの注射を打つにも1本3000円とか5000円の時代ですから、払うおカネがない。そんな状況でしたので、26~27歳まで仕事は何もできなかったんです」

──ご主人は何をされていたのですか。

「兵隊さ行って、南方から帰ってきたときはマラリアに罹っていてね。働くことができなかった。だから、身体の具合に応じて、屋根に張る柾を割る仕事をしていました。

私が働き始めたのは、27歳になってからです。金木にある弘前大学の付属農場で田んぼや畑の仕事を10年間続けました。農場は4月から11月までの季節労働なので、仕事がない冬場は内職で編み物をやりました。

子供の頃、母から編み物と裁縫を教わりました。頼まれた着物の仕立てをしている母の傍で、私は人形の着せ替えを自分で縫っていました。人形の着物でも、母から基本をちゃんと仕込まれていたからでしょうね。小学5年生の頃には、子守をしながら自分の浴衣を縫っていたし、15歳のときには何でもひとりで縫うことができました。弘前大学の付属農場を辞めた後、60歳までの20年間は、保育所で用務員と調理の仕事をしました」

【次ページに続きます】

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