【サライ・インタビュー】

小林稔侍さん
(こばやし・ねんじ、俳優)

――俳優生活55 年で映画初主演

「高倉健さんとの出会いが、僕の生き方を決めた。人生にはなによりも、出会いが大事なんです」

※この記事は『サライ』本誌2018年2月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──初の主演映画が公開されました。

「役者をやって半世紀以上になります。時宜を得たというか、今回の『星めぐりの町』( 黒土三男監督・脚本 出演:小林稔侍、壇蜜、六平直政、平田満 他)が僕の初主演作となりました。

役どころは昔気質の豆腐屋のオヤジで、ある日、亡き妻の遠縁の少年を引き取って暮らすことになる。この子は東日本大震災で家族を失って以来、誰にも心を開こうとしない。それでも寡黙に豆腐を手作りするオヤジとの交流を通じて、やがて少年は立ち直ってゆく。その心の再生を描いた映画です」

──脇役と主役は何が違いますか。

「主役は責任が伴います。昔のように、映画会社が製作して1か月に何本も撮る時代でしたら“当たらなかったな”で済みますが、『星めぐりの町』は監督の黒土さんはじめ、多くの人に支えられてできた作品です。

テレビは1日に120カットや130カットも撮りますが、映画は3カットや4カットなので時間がかかります。神輿
を担ぐ人、担がれる人といいますが、その通りですね。黙っていても、監督は主役として撮ってくれる。

いつもは役を作り込んでから撮影に臨みますが、この映画で黒土さんは素のままの僕を撮っています。衣装も普段、僕が着ているもので、僕自身そのままです。すごい責任を感じています」

──休みの日はどのようにお過ごしですか。

「でたらめです。寝ていたければ寝てますし、ぶらっとしたいと思えば、意味もなくぶらつく。趣味ってものが何もない。いい加減な小原庄助さんです。といっても、朝寝はしても朝酒はなし。お酒は一滴も飲めません」(笑)

──和歌山県のご出身です。

「高野山の麓の草深いところで、有吉佐和子さんの小説『紀ノ川』の舞台になった町(現かつらぎ町)です。親父は洋服の仕立屋でね、職人気質で短気。お袋は近所でも評判のきちんとした人でした。僕は芝居がどうこう言え
るような俳優じゃないんですけど、自分では“この役は親父の性格だ、これはお袋でいこう”とか、親父とお袋を思い浮かべて芝居をやっています。そういう俳優です」

──テレビドラマでは全力で走っています。

「全力で、1回だけ走るんですよ。ゴールではスタッフが酸素ボンベを用意して待っていてくれます。まだ1回も吸ったことはないんですが“みんなが心配する歳なんだな”と思います。だから、よけい全力で走ってやるんですよ。“あの年齢で小林稔侍が走ってるよ”ってね」(笑)

──生まれた年に太平洋戦争が始まりました。

「終戦のときは4歳でしたが、空襲警報発令やB29の爆音、焼夷弾の音を憶えています。夜になると30km離れた和歌山市が燃えているのを、お袋の背中におんぶされて見ました。防空壕に頭から放り込まれたこともあります。
怖かったですよ。

親父が兵隊にとられた日はね、朝起きると“万歳!万歳!”と声が聞こえて、近所の人が大勢集まっていた。だから僕は今でも戦争の記憶につながる万歳が嫌いなんです。選挙で当選して万歳している光景も見たくない」

──映画との出会いは。

「小学校の同級生の家が、町で唯一の映画館でした。友達の顔馴染みでいつでもすぐに入れますからね、僕が人生でいちばん映画を観たのは小学生のときですよ。ストリップや芝居のドサ回りも来ました。まだ畳が敷いてありましてね、履物は自分で持って入る。もう面白くて面白くてね、映画ばかり夢中で観ていました。

あれは黒澤明監督の『野良犬』のシーンだったなとか、いろんな作品の仕草や立ち回りのカットを憶えているんです。2時間ドラマを撮っているときも、子供時代に観た映画の1シーンがふと浮かんできて、それを真似てみたりもするんですよ」

──中学を受験して猛勉強されたとか。

「和歌山大学教育学部の附属中学に入りたくてね。成績は真ん中より上でしたけど、それだけでは学校に推薦してもらえない。だから、後にも先にも、あれほど勉強したことはありません。

なぜ頑張れたかといえば、“附属中学の女の子はすごく可愛い”と聞いたから(笑)。二宮金次郎じゃないけど、学校の帰りも歩きながら、ときには道に座り込んで勉強しました。友達3人で受験したんですが、合格したのは僕だけ。女性の力って強いですね」(笑)

──いつ俳優になろうと思ったのですか。

「俳優というよりも、僕は東京に憧れをもっていました。大学受験の願書を書こうとしていたとき、“東映ニューフェイス募集”の新聞広告を見たんです。これに応募すれば、不合格でも3~4日は東京に滞在できると思ったんです。もうひとつは親孝行をしたかった。家が借家だったので、そこから親父・お袋を出してやりたい、そのためにおカネを儲けたい。俳優になれば儲かると思ったんですが、じつはいちばん儲からない世界でした」(笑)

──大学受験より狭き門だったのでは。「昭和36年、映画産業に陰りが見え始めた頃です。それでも僕が応募した

10期の東映ニューフェイスは男女合わせて2万4000人の応募があり、合格したのは男性4人、女性15~16人ですから、もう運でしょうね。最終面接に学生服で臨んだのは僕だけで、東映の大川博社長の前で“こんな田舎者が最終面接に残れるなんて夢のようです”と言ったのを今でも憶えています(笑)

僕には銀行員をしていた兄貴がひとりいましてね。俳優養成所に放り込まれて演技の勉強を始めたとき、テープレコーダーとカメラを買ってくれました。サラリーマンの給料が1万7、8000円の頃に、両方合わせて8万円近くしたんですよ」

──いいお兄さんですね。

「兄貴は僕が30歳のときに亡くなったんですが、よく小遣いをくれたり、いろいろな形で応援をしてくれました。テープレコーダーは俳優養成所へすぐ持っていき、みんなで声を入れて遊びました。でも、帰りにはカメラも一緒に質屋に放り込んで、それっきり」(笑)

──俳優仲間はどういう人たちでしたか。

「種々雑多ですが、ずっと仕出し( 端役)専門という志の人は少なく、誰もがスターになりたくていました。みんな頑張り屋でしたよ。“仕出し180人”という撮影があっても、ぜんぶ東映の俳優で間に合うほど大勢、いま
した。だから、少しでも目立つようにいつもミカン箱の上に立って顔を出していた奴もいて。映ってなんぼの世界ですからね。

僕はそこまではしなかったけれど、走るのだけは速かった。“速すぎて映らない”って助監督によく怒られたけど、思い切り走って鬱屈を発散させていました」

──いつかはスターになると。

「いや、僕にはそれがなかったんです。俳優養成所を終え、撮影所の門の前へ立ったとき、“ああ、俺は50歳頃まで俳優の芽は出ないだろうな”と思いましたから。当時の撮影所には、それくらいの圧迫感があったんです。

でも、高倉健さんと知り合って“俺は芽が出なくてもいい、この人と一緒にいられればいい”と思いました。結果的に、それが僕の俳優人生にとって凄く大きかったんです」

──高倉健さんとの最初の出会いは。

「同期のニューフェイスと、高倉健さんに挨拶へ行ったんです。そのときは女性が前に出て挨拶しますから、僕は隙間から様子を見るくらいでした。それからは仕出しばかりの毎日じゃないですか。でも、廊下で高倉さんとすれ違ったとき“稔侍、頑張れよ”って、小さい声で言ってくれたんです。嬉しくてね。何がどうのこうのじゃなく、尻
尾ふってついていこうと決めました(笑)。高倉さんは徒党を組みません、それもよかったんです」

──付き人のような感じですか。

「違います。高倉さんにね、“稔侍、俺とおまえは友達だから、付き人みたいな真似は絶対にするな”って言われたんです。だから、手に持っているバッグや荷物なんかを“ 旦那、持ちましょうか”と言っても、そうさせなかった。一度言ったことは絶対に守る人です」

──“旦那”と呼んでいたんですか。

「映画の世界は、他の社会から見るとおかしなところで。現東映会長の岡田裕介氏はその頃“若”。高倉さんは“旦那”。僕もそう呼ばせていただきました。

酵素風呂へご一緒したときのことをよく憶えています。風呂の番をしているお爺ちゃんに心づけを渡すんですが、そのさりげなさがじつに格好いいんですよ」

──高倉健さんは気配りの人なんですね。

「僕はね、高倉さんと出会うまで、タクシーや車のドアをいつもバターンと思い切り閉めていました。そしたら“稔侍、車のドアってのは5cmあれば閉まるんだよ”って教えてくれた。その言葉を今でも僕は車を乗り降りする度に思い出します。

これは笑い話みたいなものですが、映画『鉄道員(ぽっぽや)(1999年公開)の撮影が終わり、飛行機に乗って帰ったときのことです。そのときは疲れ果てて、僕は靴も靴下も脱いで素足になって寝ていました。それから10
年くらい経ってからですよ、突然、“稔侍とは飛行機には絶対一緒に乗らない”って言うんです。何の話かなと思ったら“野蛮人じゃあるまいし、飛行機の中で裸足になりやがって”と」

──10年後に言われたんですか。

「高倉さんは、いい意味で執念深いといえば、執念深い(笑)。だから、映画界であそこまでのぼりつめたんだと思います。

高倉さんと仕事をすると、皆さん、緊張するとおっしゃいますが、僕はいちばん楽しかった」

──高倉健さんも楽だったんでしょうね。

「晩年、高倉さんがある人にこう言ったそうです。“稔侍は本当のことを教えてくれるからいいんだ”って。僕は思ったことを素直に言っていただけなんですが…。でも“おまえに言われる筋合いじゃねえよ”ってこともあったと思うんです。高倉さんが飼い主なら、僕は子犬みたいなもんです。じゃれているけど、度が過ぎればポンと頭を叩
た たかれる(笑)

今度の映画でいえば、少年を導いてゆく寡黙な豆腐屋の職人が高倉健さんで、少年は昔の僕なんです。いろいろ思い出し、感謝しながら僕は演じていました」

──映画で一番伝えたかったことは。

「人の出会いの大切さです。俳優としてだけじゃなく、人間として生きてゆくには、出会いが何よりも大事です。僕は自分の人生を振り返ってみても、痛切にそう思います。

じつは今回の作品もそうです。黒土監督とはこれまでに何度かお仕事をさせていただきましたが、ある時“稔侍さん、今度映画をやりましょう”と声を掛けていただき、それこそ頭が真っ白になるくらい嬉しかったですよ。僕のことを見ていてくれたんですね」

──いつまで俳優を続けますか。

「普通の人間として、この世から普通に消えていければいい。そう思っています。ただ、それまでは飯を食わなければならない。俳優をやるより仕様がない。志の低い人間です。

ところが、僕は『学校III』(1998年公開)という映画で、初めて山田洋次監督に呼ばれましてね。現場の空気に“飯が食えりゃいいや”と思っている自分が恥ずかしくなりました。それで“よし、志を高く持とう”と決めて頑張ったんですが、その自覚も次第に薄れてきて(笑)

ただ、いくつになっても一所懸命こつこつやっていれば、誰かが必ず見て声をかけてくれる。そう願って、いまも俳優稼業を続けているんです」

── 台詞を憶えるのが辛くなることは。

「じつはね、僕は昔に比べると、台詞憶えがよくなっているんです。若い頃は全体の6~7割しか憶えていなくて、現場で“稔侍さん、本番いきます”となっても“あ、もうちょっと待って”の繰り返し(笑)。今は台詞を憶えていかないと“大丈夫かな”と思われる歳だから、頑張って憶えるんですよ」(笑)

●小林稔侍(こばやし・ねんじ)
昭和16年、和歌山県生まれ。同36年東映ニューフェイスに合格して映画界入り。NHK連続テレビ小説『はね駒(こんま)』(昭和61年)で地歩を築き、TBS『税務調査官・窓際太郎の事件簿』(平成10年~)他のドラマシリーズに多数出演。平成11年、高倉健と共演した『鉄道員(ぽっぽや)』で第23回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞受賞。『学校III』(平成10年)以降、山田洋次監督作品の常連俳優である。

※この記事は『サライ』本誌2018年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工 スタイリスト/高橋匡子 衣装提供/パパス)

 

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