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【インタビュー】富岡畦草さん(記録写真家)|定点観測式写真で時代の変化を記録し続けて70年

サライ世代の範とすべき人生の先達の生き様を毎号お伝えしている『サライ』本誌連載「サライ・インタビュー」。2018年新春企画として、昨年本誌に掲載されたインタビューの数々を紹介する。

富岡畦草さん
(とみおか・けいそう、記録写真家)

――定点観測式写真で時代の変化を記録し続けて70年

「焼け野原になった日本のこれからを記録に残さねば。それが私の原点です」

撮影/赤城耕一

※この記事は『サライ』本誌2017年6月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/赤城耕一)

──記録写真を撮り続けて70年です。

「戦後の焼け跡時代から撮り始め、僕も90歳になりました。これまでに撮った写真は40万枚を超えるんじゃないかと思います。写真機を手にすると、芸術写真を撮ろうと張り切る人が多いのですが、僕は違っていました。写真は一瞬を記録するもの、記録こそが写真の使命と思っていました。

一枚の写真で時間の経過や時代の移り変わりを記録するには、どういう手法で撮るのがいちばん効果的か。そう思う中でひらめいたのが同じ場所、同じ視点で時代の推移を撮り続ける、定点観測式の撮影方法でした」

──いわゆる“定点撮影”ですね。

「今では広く知られるようになった定点撮影は、僕が最初に始めました。ヒントをくれたのは、山岳小説で知られる新田次郎さんです。新田さんは作家になる前に中央気象台、今の気象庁で予報課長をされていました。その予報のために、戦争で焼け残ったボロ船が海洋上の定点で気象観測を行なっていた。それが、終戦直後の日本にできる気象観測の唯一の手段だったわけです。

昭和26年、僕は国家公務員の人事行政に公正を保つ機関として創設されたばかりの人事院で広報写真室に勤めていました。その頃に新田次郎さんとお会いする機会があり、気象観測の話を聞いたのです。“そうか、写真にも定点観測の手法を活用すればいいのか”。そう思い、定点での写真を撮り始めました」

──なぜ記録写真なのですか。

「僕は特攻隊の生き残りです。戦争が終わり、目の前には焼け野原となった日本がありました。家を焼かれた人たちは床下に穴を掘り、その中で寝泊まりをしていた。言葉にできないような、痛ましい惨状でした。日本の復興だけをひたすら念願しておりましたが、そのためにも“今”を記録に残しておかなければいけない。そう、痛切に思ったんです。

当時の人事院の上司に“国の仕事として残すべき記録です”と提言しましたが“余計なことはやらなくてよろしい”と言われました。それが悔しくてね。“よし。誰もやらないのなら、僕がやろう”と決めました」

──特攻隊の生き残りとおっしゃいました。

「僕は三重県の生まれで、戦争中に県立の松阪工業学校を出ると、東京の杉並にあった中島飛行機の本社で戦闘機の設計をしていました。ところが“いよいよ本土決戦だから、技術者も兵隊に行ってくれ”と言われ、海軍の飛行兵に志願しました。昭和19年のことです。終戦間際の頃は茨城県の谷田部海軍航空隊(現つくば市)で特攻の訓練を受けながら、本土決戦に備えていました」

──死ぬことを覚悟されていた。

「僕が見張りの当番に立っていたとき、基地目がけて、敵機が機銃掃射をしてきました。でも、死ぬことを覚悟していたので、怖くなかった。ところが、いくら攻撃されても不思議なことに僕には弾が当たらない。最後にやって来た敵機はなぜか機銃掃射をせず、パイロットの顔が見えるくらいに近づいてから飛び去った。悔しくて“ちくしょう”と手を振りあげたら、向こうは翼を揺らせて挨拶をしていった。“ああ、敵にも人の心はあるんだな”と思いました。あれは感動的でした」

──写真との出会いは。

「終戦の翌年、僕は名古屋にあった運輸省の東海海運局に勤め始めたんですが、そこにカメラ自慢の年配の方がおられて。中古のカメラを薦めてもらったんです。初めて手にしたのは後のコニカ、六桜社のパールという目測式の蛇腹のカメラでした。なぜカメラが欲しかったかというと、隣に住んでいた4歳の子供が川で溺れて亡くなったのですが遺影がなかった。戦争で子供の写真一枚を残すこともできなかったんですね。それが憐れで。僕が写真機を買おうと思ったきっかけです。

もっとも、僕が買えたのは焼け残りの中古カメラで、蛇腹が破れ、ピントもろくに合わなかった。蛇腹に絆創膏を貼って使うような代物が、当時のお金で5300円。半年分の給料が飛びました。このカメラで、名古屋の駅ビルから天守閣が焼けてなくなった名古屋城を撮ったのが最初の写真です。フィルムが配給制の時代で、中判カメラ用のフィルムは月に2本手に入れるのが限度でした。しかも2本買うと、月給の1割がなくなりました」

──名古屋から東京へ移られたのですか。

「“写真は記録こそが大事”という僕の持論を聞いて“君は新聞社へ行ったほうがいい”と助言してくれた方がおりまして。昭和23年に上京し、創刊間もない日刊スポーツ新聞社に入りました。まだ13歳の少女だった美空ひばりさんが水の江滝子さんの膝にあがって抱きついてる写真を撮ったり、『リンゴの唄』が大ヒットした並木路子さんとも仲良くなり、面白い体験がいっぱいできました。

そんなときに、人事院の写真室からお呼びがかかったんです。実は兄が運輸省の局長をやっていまして、僕を推薦したらしいんです。結果、ひとりだけの報道担当カメラマンとして国に採用されました」

──たったひとりだけですか。

「そうです、ひとりだけです。それまでは、必要がある場合に新聞社のカメラマンを特別報道官員に指名して撮影を許可し、それを国が検閲の上、発表していました。昭和33年の機構改革で写真室がなくなるまで、僕は国でひとりだけの報道担当カメラマンでした」

──定点観測は休日に撮られたのですか。

「人事院では、各省庁関連の広報写真を撮るのが仕事でしたから、給料をもらっている以上、それはきちんとやりました。記録写真は、もっぱら昼休みに出かけられる行動範囲内で撮りました。カメラも役所のものではなく、自分で買ったキヤノンの中古カメラです。まだ地下鉄がありませんから、役所から都電で新橋駅まで行き、銀座や日比谷を歩いて撮りました。土曜日は半ドンですから、午後は自由に使えます。日曜日は丸々、写真撮影に使いました。当時は、新橋が今よりもうんと賑やかで活気がありました。逆に、有楽町なんて降りる人もほとんどいなかったんですよ」

──お住まいはどちらだったのですか。

「家内の珠江とは同じ人事院に勤めていて出逢ったんですが、結婚を機に神奈川県藤沢市の片瀬海岸に家を借りました。ですから、通勤に使う東海道線の車窓や沿線の風景もずっと撮り続けてきました。昭和30年に長女の初恵が生まれますが、2100gの未熟児でした。この娘の生きた証として、明日をも知れぬ我が子の成長記録を残してやろうと毎日撮り続けました。それが雑誌『太陽』に“母と子の1000日”として掲載され、昭和33年に第1回日本写真協会新人賞を受賞しました。次女の三智子が生まれてからは、その成長記録を撮るのも習いになりました」

──毎日、家族を撮られたのですか。

「そうです。娘たちが修学旅行に出かけるときはカメラを持たせ、先生にシャッターを押してもらうよう頼みました。同時に、娘たちがいない家の写真も撮りました。不在というのも、ひとつの記録ですから。僕が撮れないときは、家内がシャッターを押しました。娘の誕生から結婚までを、人間の記録として撮り続けたわけです」

──暗室作業もご自分でされたのですか。

「藤沢の自宅でやっていました。昭和62年に僕は人事院を定年退職し、半年後に家内は亡くなりましたが、その直前まで暗室はありました。ですから、30年以上ですね。その間、僕は電車に乗って出勤するために朝の7時15分に家を出ます。それまでに出版社などから頼まれた写真の水洗いから乾燥までを終えて、僕に手渡すのが家内の受け持ちでした。写真はしっかり水洗いしないといけないので、水道代が銭湯並みにかかり、そのやりくりだけでも大変だったと思います。僕が撮影して、家内が写真の整理をする。そういう作業分担がなければ、撮影した写真が膨大過ぎて、僕ひとりだけではとても続けられなかった」

──なぜ、そこまでできたのでしょうか。

「“時代と人間の記録写真を残す”というお互いの使命感からです。毎日の食事も撮る。月に一度は娘たちの顔の正面と横顔も撮る。今と違い、撮影は時間がかかりますから、娘たちは正月でも冷めて固くなったお雑煮しか食べたことがない(笑)。でも“これは日本人の昭和の記録だから、お父さんに協力しなさい”、そう家内が教えていた。そうした生活の記録は、新聞で連載にもなったりしていたので、娘たちも物心つく頃には“うちはよそとは違うんだ”と知っていたと思います」

──奥様の内助の功ですね。

「家内は戦時中に、玉砕の島として知られる硫黄島から潜水艦で引き揚げてきました。写真に残らなかった歴史を見ています。『硫黄島からの手紙』(2006年)などの映画にも描かれた司令官の栗林忠道中将と親交が深かった家に生まれ、戦後は人事院の女性採用第1号でした。縁あって僕と結婚したんですが、家内の助けがなければ、これほどの記録写真は撮れなかった。心から感謝しています」

──富岡畦草流の定点撮影の極意は。

「街の定点撮影で大事なのは、交差点と駅前広場です。交差点には、その時代の人の生活や社会状況が一番よく表れます。駅前広場は勤めに行く人、買い物に行く人、いろいろな人の活動の発信地です。人が集まるところは、人の意志が発動する場ですから、企業の宣伝のための看板もある。僕は“確認証明”という言葉を使うんですが、自分が確かに見たものを証明するのが写真です。だから、アーチスト的な写真は一切撮りません。あくまでも記録が目的ですから。一枚の写真が時代を物語るために必要な要素を必ず入れます」

──撮り方に工夫はありますか。

「僕は、広い範囲が撮れる広角レンズを使うことが多いのですが、仕上がりは一般的な写真に比べると見た目の印象が弱くなります。でも、大事なのは写真にその場所と時代が表れる、いろいろな条件が包含されることです。その情報をあとで読み取れるのが記録写真の面白さです。

例えば、商店の看板や商標などを入れて撮れば時代が読み取れます。道に落ちているゴミもみだりに片付けてはいけません。ゴミも時代の記録なんです。そこに紙切れが捨ててあるのか、ビニールが捨ててあるのかで時代の違いや街の環境、土地の人の考え方までが見えてくる。写真は確認証明です」

──記録写真の定点はいくつありますか。

「多くの方からよく聞かれるのですが、たくさんあり過ぎまして。僕の場合、初めて撮った場所でも、その次からはもう定点になっていますからね。どんどん増え続ける一方で、その数は自分でもわかりません」(笑)

──体の健康はいかがですか。

「僕は70歳になったときに“もういつ死んでもいい。野生動物を見習って生きる”と宣言しました。以来、健康診断は受けていません。1回だけ、肺炎だと言われて何日か入院させられましたが、自分からは病院に行きません。自然に任せようと決めています。

健康を意識するあまり、自分を病人に仕立ててしまう人がいます。僕はそういう例をまざまざと見てきました。友人・知人は皆、先に亡くなりました。生きているのは僕だけです。食べ物の好き嫌いはないし、歯も大丈夫だし、耳も大丈夫です」

──これからも写真は撮り続けますか。

「もちろんです。これからも時代の変化を記録してゆきます。少しでも何か社会の役に立つことを残さなければと思い、これだけは命をもらっている限り続けます。記録写真は、撮り継いでこそ価値があります。幸せなことに、娘や孫が僕のやってきた記録写真の意味を理解してくれ、これを文化財として守ってゆくことになりました。僕一代で終わらせずに2代、3代と受け継いでいくと言ってくれています。

カメラを手にパタンと死ねれば本望ですが、今は書く作業を増やしています。写真だけではわからないこともあるので、後世のために撮った背景などを書き残しておこうと思い、写真誌の連載を持ち、市の生涯学習講座の講師も引き受けています。記録写真に関することだけでも、まだいろいろやることがある。死んでる暇がないのです」(笑)

●富岡畦草(とみおか・けいそう)
大正15年(1926)三重県生まれ。特攻隊志願兵として終戦を迎える。運輸省東海海運局・日刊スポーツ新聞社を経て、昭和26年人事院広報課に勤務。仕事の傍ら身辺の記録を撮影する「定点観測式撮影法」を発案。その先駆者として記録写真の世界を確立する。以後、首都圏や湘南地区を主軸に、その街並みや沿線風景から家族写真まで、常に変化する時代の記録写真を撮り続けている。『鎌倉の散歩みち』『消えた街角-東京』等、著書多数。

※この記事は『サライ』本誌2017年6月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/赤城耕一)

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