サライ世代の範とすべき人生の先達の生き様を毎号お伝えしている『サライ』本誌連載「サライ・インタビュー」。2018年新春企画として、昨年本誌に掲載されたインタビューの数々を紹介する。

小泉和子さん
(こいずみ・かずこ、生活史研究家)

――家具をはじめ生活道具の歴史を研究して半世紀

「私の暮らしは昭和そのまま。便利さに頼ると、知恵も感性も鈍ってしまいます」

撮影/宮地 工

※この記事は『サライ』本誌2017年7月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──ぬか床を混ぜていらしたのですか。

「これは私の自慢のぬか漬けです。お茶菓子代わりに、食べてもらおうと思いまして。野菜はぬか漬けにしたほうがビタミンやミネラル分が何倍にも増えるし、美味しいですからね。うちのぬか床は母が終戦後すぐにつくったもので、私が25歳で結婚して家を出たときに分けてもらいましたから、70年もの。昭和の味がしますよ」(笑)

──ぬか床は手入れが大変といわれますが。

「みなさん誤解されていますが、ぬか味噌ほど手のかからない、楽なものはありません。水分だけきれいに取っておけばいいんですから。毎日かき混ぜなくてもいいし、少々カビが出ても大丈夫です。蕪や大根、胡瓜に茄子、私は独活もよく漬けます。味をよくするため、ぬか床に卵の殻や鮭の頭、飲み残しのビールなど、何でも入れます」

──梅干しも手作りされているのですね。

「毎年、青梅が出ると嬉しくなって、梅干しにしています。他にも辣韮を漬けてみたり、夏みかんのマーマレード、バジルペーストもつくり、瓶で保存しておきます。

私は子供時代が戦争中でしたから、何でも自分で工夫したし、家事は苦じゃありません。料理も得意です。私の日常は昭和の暮らしそのまま。もっとも、洗濯は今は盥じゃありませんけど(笑)。オール電化ではなく、半電化の暮らしです。あまり電気の便利さに頼ると、手の能力が衰え、知恵も感性も鈍ってしまいます。実際、便利さによって多くのものが失われてしまったでしょう」

──「昭和のくらし博物館」を開かれてます。

「私は文化庁の文化財保護審議員をしていましたから、建物を国宝や重要文化財に指定する審議に参加しましたが、大名家とか立派なものしか指定されない。私は、庶民の暮らしがわかる住宅も残しておくべきだと思い、それには家具も合わせて、丸ごと指定することが大事じゃないかと考えていました。なぜなら家は人が暮らす器ですから、建物だけ残しても空き家でしかない。そういう意見を述べたんですが、聞き入れられなかった。

だったら私が自分で残しておこうと思い、『昭和のくらし博物館』を開館したんです」

──博物館はご家族が暮らした家ですね。

「父が昭和25年に設計して建てた家です。昭和20年代の家はほとんど残っていませんから、戦後の貴重な庶民資料として、平成11年に家が無人になったのを機に博物館にしました。平成14年には登録文化財になりました。

最近、ある雑誌の記者が昭和の家事の取材にいらしたんですが、盥(たらい)を見て“何をするものですか”と聞くわけです。洗濯だと教えても理解できなかった。何も知らないんですよ」──昭和は遠くなりにけり、ですか。

「実際、昭和のものは、大人でもわからなくなってきています。生活様式が戦後の高度経済成長時代に大きく変わったでしょう。団塊の世代はまだ経済成長前の生活を知っていますが、高度経済成長以後に育った人にはわからない。テレビドラマなどの時代考証をするような人でも、実体験がない世代には、いくら丁寧に教えても伝わらないことがあります」

──お生まれは東京なのですね。

「うちは祖父の代から東京です。銀座のマリオンがあるところに住み、そこから芝へ移り、私が生まれたときは文京区の小石川でした。戦時中の強制疎開のときは、母の叔母がいる横浜へ越しました。東京市役所(現東京都庁)の建築技師だった父は身体が弱く、家財を積んだ大八車は母が引き、78歳のお祖母さんが後を押して横浜まで運びました。その荷物も片付かない昭和20年5月、横浜大空襲に遭ったんです」

──まだ小学生ですね。

「小学6年生でした。その直前まで、3歳下の妹と学童疎開に行かされていました。でも、妹がいじめにあって毎日泣いておねしょするものですから、一緒に家へ帰された。それからすぐのことです。空襲警報が鳴り、高台の防空壕に避難しましたが〝焼夷弾の火で防空壕から出られなくなるから、外へ逃げろ〟と出された。父と母は町会の蔵を守らなくてはいけないので、私は小学3年生と4歳の妹ふたりを連れて逃げました。高台から見ると、目の下は一面の火の海。頭が真っ白になるって本当ですね。一緒にいたはずのお祖母さんともはぐれてしまいました」

──心細かったでしょうね。

「防空頭巾を濡らして被り、走りだすと、すぐに機銃掃射がきた。飛行機が低空に下りてきて〝タタタタタ〟って撃ってくる。1度目は脇の家に逃げ込み、2度目はドブの中へ隠れた。3度目がきたら危ないというので、防護団の人が畳を持ってきてドブに蓋をしてくれたんですが、その上に焼夷弾が落ちたものだから“出ろ!”と。4歳の妹をおぶって、もうひとりの妹の手を引くと火の中を逃げ回りました。4歳の妹は〝火がついた、熱い!〟と泣く。火はついていないんですが、周りがもの凄く熱いんですね。しかも、昼間なのに夜のように真っ暗なんです。空襲は1時間くらいで終わったらしいんですが、一日中逃げ回っていたような気がします。

夕方になり、火勢がようやくおさまった頃、探しにきたお祖母さんと出逢い、母たちのところへ戻れました。家は焼けましたが、家族は無事でした。空襲の恐ろしさを嫌というほど味わいましたからね、私は戦争に絶対反対です」

──ご専門は家具史の研究です。

「私は絵描きになりたくて、女子美術大学へ進みました。卒業すると、家具の設計事務所を始めるという人から“手伝ってくれないか”と頼まれまして。それがきっかけで家具に興味をもち、仕事を手伝ううちに、その人と結婚することになりました。昭和34年でした。

家具制作の傍らに歴史を調べ始めたら、これが面白い。しかも、家具史が専門の研究者はいなかった。雑誌に頼まれて家具の話を書いたり、風俗史学会に誘われ、明治百年の“住宅近代史”を書いて発表しました」

──凄い行動力ですね。

「家具史の研究は面白かったんですが、結婚生活のほうははいろいろと事情がありまして、10年で別れることになりました。離婚した翌年の4月から東京大学建築史研究室の研究生となり、そこから簞笥などの日本家具や室内意匠史の研究を本格的に始めたんです。生活費や家具の調査費用は、子供たちに絵を教えたり、部屋を貸したりして捻出しました」

──日本の家具史の面白さの所以は?

「家具の歴史は古く、奈良時代に中国からいろんなものが入ってきました。それが平安時代になると日本化して、その後の和風家具のもとになります。平安時代の貴族の家は寝殿造りで、儀式をするためにつくられていますから、壁がなくて柱しかない。だから、棚を並べて屏風を立てるなどしないと暮らせません。寝るところも組み立て式家具なんです。畳を敷いて、四隅に柱を立て布を垂らした御帳台というものを置いて、寝所にしました」

──家具がなければ暮らせなかった。

「平安時代は、家具が一番必要とされました。中世の鎌倉・室町期になると、それが障子や襖など、つくりつけのものに変わってゆきます。寝殿造りのときは、建築と密接不可分な形で家具を組み立てて使っていたことが、習慣化し、いつも同じところに家具を置くようになると、つくりつけになってゆくんです。押し入れも、初めは大きな戸棚を置いていたものが、建築に組み込まれた結果です」

──昔の家具は高価だったんでしょうね。

「中世の京都を描いた洛中洛外図などを見ると、材木は京都の北山から人が担いで運んでいます。そんな時代ですから、高価過ぎて、庶民は家具を持てないし、必要もなかった。仕舞うほど着物もありませんでしたし(笑)。

簞笥が一般的になるのは、木工道具と製材技術が進んだ幕末です。もっといえば、日本風の家具が発達するのは明治時代。明治30年頃になると、今度はテーブルなどの洋風家具が入ってきます。いずれにしても、家具が建築に吸収されてゆく道をたどるのが日本の常です」

──それは日本だけの現象ですか。

「西洋でも韓国でも家具は置くもので、つくりつけではありません。日本だけの現象です。以前は、下駄箱や箪笥が嫁入り道具でしたが、今はつくりつけの棚やドレッサーになっていますよね。簞笥も今はなくなってきてるでしょう。これはもう寝殿造り以来、日本人の遺伝子に組み込まれているとしか言いようがない。私はやがて椅子もテーブルもつくりつけになっていくと思います」(笑)

──貴重な家具の修理復元もされています。

「有栖川宮家の別邸だった、福島県猪苗代町の天鏡閣を始めとして、重要文化財指定の建物の家具の修復は随分と手がけました。これが結構大変でしてね。資料や図面が残っているものはいいんですが、全くわからないものもある。復元の技術も、どんどんなくなってきています。建築ですと、茅葺きの職人がいなくなるというと、その手当てをします。家具に関しては誰も手当てをしないから、腕のいい職人が減って技術が絶えてしまうんです」

──家具の価値を見直すべきですね。

「日本には、いい家具がたくさんあったのに関心がないために、現物は捨てられてしまう。ある会社でしたが、歴史的な価値のあるテーブルが、社員食堂の薬缶置き場になっていた。価値がわからないと、どんなに重要なものでも捨てられてゆく運命にある。

京都のお寺でしたが、廊下の隅の物置台になっていた棚が、歴史的に非常に重要なものだとわかったのでそう伝えましたら、次に行ってみると変に修理されてしまい、肝心なところが変わってしまっていたんです。

昔は人の手だけで凄くいい仕事をしていました。そういう人々の営みを残さず、失くしてしまうのは愚かなことです。人間に対する冒瀆だと私は思います。貴重な家具の資料館みたいなものをつくれたらいいんですけどね」

──健康管理はどうされていますか。

「6時に起き、家の目の前にある公園でラジオ体操をしてから、30分ほどかけて歩きます。それから朝風呂に入り、朝食は豆乳と納豆。新聞を読んだりしてるうちに、9時になるとスタッフが来ますので、仕事に取りかかります。その一方で、月曜はストレッチと筋力とバランス強化のためにピラティス体操、水曜は健康体操、そして金曜日は音楽体操に行っています。そうしないと、どんどん衰えてくるんです。私は昨年から、自律神経失調症になってしまい、目まいがしたり、しばらく調子が悪かったんです。これは運動するしかない、と思いましてね。ついこの間からですが、友達と一緒に声楽も始めました。ただ、声を出しているだけなんですけれど」(笑)

──これからの目標は何でしょうか。

「『昭和のくらし博物館』と家具史の研究所については、後を引き継いでくれる人に家ごとあげるつもりです。後継者養成5か年計画というものを始め、勉強会をしています。私には子供がいません。昭和の博物館には好きで手伝ってくれている教え子がいますので、彼女に任せます。家具史の研究と学会については、別の教え子に引き継いでもらいます。今は、彼女たちが家をもらっても迷惑しないよう、必要な手続きを進めているところです。

私の仕事をつないでくれる後継者もできたことだし、あとは死ぬ前に生前葬みたいなものをやれたら楽しいかなと思います」

──どんな生前葬ですか。

「インドネシアへ行ったときに見た葬儀がすごく興味深かったんです。大勢の人が集まる真ん中に3階建ての小屋があり、その一番上の階に亡くなった人の棺桶がある。傍にキリスト教のマリア様みたいな像もあったように思います。一番下の段には亡くなった人の等身大の木像が立っているんです。編み笠を被り、三途の川を渡るときのおカネが入った袋を持ち、“皆さん、どうぞ食べてください”という手ぶりで、ご馳走を勧めているんです。

私は、それを生前葬としてやりたい。お葬式は私だけですからしなくていい。代わりに後継者のお披露目も兼ねて、楽しい生前葬をしたいんです。私がご馳走をたくさんつくって、大勢を呼んで楽しく食べて、それでもういいってことにしましょう」(笑)

●小泉和子(こいずみ・かずこ)
昭和8年、東京生まれ。女子美術大学芸術学部洋画科に学ぶ。昭和45年から5年間、東京大学工学部建築史研究室で日本家具・室内意匠史の研究を行なう。重要文化財建造物の家具の復元を手がけ、博物館・資料館の展示企画に携わる。「昭和のくらし博物館」館長。家具道具室内史学会会長。工学博士。著書に『和家具』『家具と室内意匠の文化史』『道具が語る生活史』など多数。

【昭和のくらし博物館】
住所:東京都大田区南久が原2-26-19
電話:03・3750・1808
開館:火曜〜日曜の10時〜17時
休館:月曜

http://www.showanokurashi.com/

※この記事は『サライ』本誌2017年7月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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