サライ世代の範とすべき人生の先達の生き様を毎号お伝えしている『サライ』本誌連載「サライ・インタビュー」。2018年新春企画として、昨年本誌に掲載されたインタビューの数々を紹介する。

田中信昭さん
(たなか・のぶあき、合唱指揮者)

――東京混声合唱団を創設、合唱を指揮して60年

「合唱は、ひとりひとりの個性がぶつかり合う芸術です。人に合わせるものではありません」

撮影/齋藤亮一

※この記事は『サライ』本誌2017年2月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/齋藤亮一)

──多くの合唱団の指揮者をされています。

「いま私が指導をしている合唱団は、10団体くらいです。先頃は、滋賀県立芸術劇場専属でプロの『びわ湖ホール声楽アンサンブル』の東京公演がありました。今日は、現代的な作品を得意とするアマチュア混声合唱団の練習日です。『新しい合唱団』という名称ですが、25年前の創立で、今は次の演奏会に向けて猛練習をしているところです。

合唱は、ひとりひとりの歌声が集まってできるもので、その基になるのは声楽です。声楽とは息と声を使って行なう〝曲芸〟であり、〝自由自在な息づかい〟で歌えることが大切です。自らの身体を楽器にし、その機能を最大限に生かす必要があります」

──文字通り、合唱とは〝曲芸〟なのですね。

「私たちの息は心の動きで変化します。喜びが高まると息は弾み、逆に悲しくなると息は詰まってくる。そのときどきの感情で発する息で声の姿は異なります。ですから、人は声で多彩な表現ができるわけです。

歌とは、その息づかいを技術として駆使しながら、声で音楽世界や喜怒哀楽までも表現するものです。曲がもつ意味が伝わるように、技をもって歌う。〝声の曲芸〟ともいうべき楽しい遊びなのです。その素晴らしい遊びをひとりではなく、大勢が集まって行なうのが合唱です」

──練習では「足の指」を気にされていました。

「身体を楽器にして歌う合唱の一番の基本は、10本の足の指を大地にしっかりつけて立つことです。足の指で大地をつかむことで、全身を支えることができる。そうすれば血の巡りもよくなり、声もちゃんと出ます。だから、声が出ていないときは〝足の指!〟と指摘するわけです」(笑)

──東京混声合唱団の創設メンバーです。

「60年以上前のことになりますが、24歳で東京藝術大学に入学し、同じ声楽科の連中に声をかけて作ったのが、現在の東京混声合唱団の前身です。当時、藝大に合唱の授業はあっても、あまり実践的なものではなかった。なので、自分たちで合唱のトレーニングをするグループを作ろうと、ひとりずつ説得して20数名が集まったんです。

創立時に3つの理念を掲げました。楽しい音楽会をやる、職業合唱団として成立させる、日本の合唱曲を作る、というものでした」

──それまで職業合唱団はなかったのですか。

「NHKの放送合唱団を除くと、日本で初めてでした。専門的に合唱音楽を究めてゆきながら、それを職業とする集団は他にはなかったのです。もっといえば、NHKの放送合唱団はプロでも〝雇われ〟ていますから、経済的に自立しながらレパートリーを広げてゆくプロの合唱団は東京混声合唱団が最初です」

──そもそもの音楽との出会いは。

「私は新潟県の高田、今の上越市に生まれました。父は東京音楽学校(現・東京藝術大学)を出た師範学校の音楽教師でした。家にはピアノがあり、休日になると父はお弟子さんに教えていましたし、母もよく弾いていた記憶があります。私が5歳くらいのときのことです。父がラジオ放送でヴァイオリンを弾くことになりました。皆でラジオの前で放送が始まるのを待っているとアナウンスがあり、〝さあ始まるぞ〟と思ったら最初に聞こえたのは父の声で〝あ、ちょっと待ってください!〟(笑)。まだ、のんびりした時代でした」

──ピアノはご両親に教わったのですか。

「いえ。誰も教えてはくれなかったし、私も習う気がなかった。ただ、耳で聞きながら、勝手にピアノを触っているうちに、かなり弾けるようになりました。

父の転勤で、中学時代を大阪で過ごしました。あるとき、東京音楽学校を出た先生が赴任してきた。戦時中でしたから〝諸君は音楽なんてやらなくていい〟と音楽室で宣言すると、生徒に自習をさせ、自分は本を読んでいる。その代わり、太鼓でもラッパでも、やりたければ好きに演奏してよいという。それならピアノをやろうと思い、家でベートーヴェンのピアノソナタ『月光』を猛練習して弾いてみせたんです。先生もみんなもシーンと聞き、特に拍手もありませんでしたが、通信簿で音楽は100点でした」(笑)

──音楽を目指す転機は何だったのですか。

「昭和20年の春、旧制大阪高等学校に入学しましたがその夏に終戦。校庭に集まって玉音放送を聞いたとき、体の中のエネルギーがぜんぶ出てしまったような、脱力感なんてもんじゃない、言いようのない空虚さに襲われました。ふと見上げた空は真っ白だった。何も意志のない、白い空があるだけでした。

今思えば、それが自分の心でもあったんですね。その空疎さから抜け出すきっかけを与えてくれたのが音楽でした。学校の講堂に父兄が寄贈したピアノを見つけて弾いていると、クラスの仲間がだんだん集まってきて、皆で合唱を楽しむようになりました。近くの大阪府女専などに声をかけて混声合唱団を作り、ほかの学校にも呼びかけて合唱連盟を組織しました。そうやって、お互いに競い合うようになったんです」

──それから東京藝大へ進まれたのですか。

「まずは、東京へ出るためにおカネを稼ぐ必要があったので、中学校の音楽教師になりました。NHKの大阪放送合唱団にも一時、籍を置いたことがあります。

中学校の音楽教師になった経緯が面白いんですよ。行きあたりばったりで、最初に目に付いた中学校の門をくぐり〝雇ってください〟と校長先生に頼んだ。そしたら〝あなたは、面白い人ですね。来てください〟と(笑)。

9クラス、500名の子供たちに合唱を教えましたが、すぐにうまくなって、大阪のコンクールで1位になりました。合唱に夢中になった生徒は成績も上がり、みな第一志望に受かりましたよ。そのとき、自分でも〝合唱はいい、音楽は素晴らしい〟と心底、思うようになったんです」

──放送合唱団には指揮者で入ったのですか。

「いえ、合唱団のメンバーとしてです。藝大に入る準備をするために中学校の教師を辞めた直後に、大阪放送合唱団の方が声を掛けてくれたんです。ところが、入団してすぐに指揮者の方が亡くなられ、急遽〝おまえが指揮をやれ〟と言われて指揮をすることになった。藝大の声楽科に合格したのは昭和27年、24歳のときです」

──プロの指揮者を辞めてまで藝大へ。

「自分ではまだ素人だと思っていたし、もっと本格的に勉強をしたかった。何しろ、勤労動員で中学と高校のときは敵機のB29を撃ち落とす弾丸ばかり作っていましたから、音楽の勉強ができませんでした。

ただ、藝大へ入ってから気が付いたんですが、私のような合唱の体験をした専門家の先生はいらっしゃらなかった。それまでに体験した合唱が、藝大の授業よりもずっとレベルの高いものだったと知りました」

──日本語の合唱曲を作ってこられました。

「東京混声合唱団を作ったとき、日本語の合唱曲はほんの少ししかなかった。〝日本人が歌える、日本語の合唱曲を作らねばならない〟。そう教えてくれたのは藝大のネトケ・レーヴェ先生でした。ネトケ先生には様々な楽曲を通して〝声じゃなく、意味だ〟〝発音ではなく、作品の意味を歌うのが声楽だ〟。徹底して、そう教わりました。

藝大の声楽は、ドイツリート(歌曲)とかイタリーソングとか外国のものが中心で、言葉の意味がわからないまま歌っていても構わないというような悪い習慣もありました」

──意味をわからずに歌ってはいけない。

「歌というものは、言葉や詩が作曲家によってどう感じとられて音楽にどう姿を変えたのかが大事です。そこをいい加減にしたまま演奏するようでは、曲の本質に迫ってゆけないし、言葉の意味もわからずに外国語でただ歌うというのでは仕様がない。歌は、音楽と言葉が一体化してこその表現です。

西欧には、歴史に長く培われてきたキリスト教音楽などの伝統が基盤にあります。じゃあ、日本の伝統文化に根差した音楽には何があるのか、そう思って民謡はもちろん、仏教の声明など、いろいろと探し求めた時期もあります。ただ、私は単に日本語で歌える曲を求めているのではありません。日本語が音楽に姿を変えたもの、日本人の美意識が音楽に昇華したものが欲しい。そういう曲を探し求め、優れた作曲家や詩人の方が作られてきた合唱曲を470曲ほど指揮しました」

──指揮者は皆の心をひとつにする。

「いえ、そんな必要はありません。歌は人の心の叫びです。曲に対する考え方はそれぞれ違っていい。その人なりの感じ方でいいんです。合唱は人に合わせて歌うのではありません。ひとりひとりが相互に影響を与えながら歌い合う。ひとりひとりの個性ある歌声が直接ぶつかり合って音楽を創り出します。合唱活動は、ほかの人たちと一緒になって初めてできる魅力的な音楽の場です。様々な詩がもつ意味を歌い上げる、その表現の豊かさは楽器にはできない合唱音楽の特徴なんです」

──歌の感じ方が違ってもいいのですか。

「何のために歌うのか、どうして皆で歌い合うのか。そういうことは考えなければいけませんが、それぞれが違う想いで歌った合唱でも、それが本当にひとりひとりのものであれば、その合唱には力がある。

決して、指揮者の私が思うように歌わせようということではない。主役は、合唱団のメンバーのひとりひとりです。私はそれを客観的に聞き、この合唱団はこういう考え方なんですよ、ということをお客さんに伝える係です。それぞれの想いを伝えたい。だから〝今のあなたの技術では伝わりませんよ〟、ということは言います。また、合唱は隣の人とのアンサンブル、共同作業ですから、それが成り立っていないときは〝いい音になりませんよ〟と言う。その舵取り役が指揮者です。

合唱団のメンバーは私が振るタクト(指揮棒)を見て歌います。いかに見やすいかが大事です。皆の目線からどう見えるのかを、鏡に映る姿で日々、確かめています。格好良く振るためではありませんよ」(笑)

──夜型の生活とお聞きしました。

「若い頃からの習慣もありますが、私たち合唱の指揮者が大事な仕事をするのは夜なんです。演奏会は夜7時頃からの開演が多い。その時間に向けて自分の状態を高めてゆく。

合唱団の練習も、学生なら授業が終わってから。サラリーマンや自営業の人などは夜6時以降に集まり、8時半とか9時頃まで練習を行ないます。それから自宅に帰り、いろいろとやりますと、寝るのがどんどん遅くなってしまうんです」

──合唱の指揮は立ちっぱなしです。

「指揮は全身運動ですが、いちばん使うところはどこかというと、やはり足の指なんです。演奏会はだいたい2時間くらいです。その直前にはゲネプロといって、本番と同じ通し稽古をしますから、当日は4時間くらい立ちっ
ぱなしです。それを意識し、ふだんから電車に乗ってもずっと立っています。周りの方が気にして席を譲ってくださるんですが、感謝しつつも丁寧にお断りしています」(笑)

──健康法は何かありますか。

「あえて何かをやるということはしませんが、皆さんにも是非お勧めしたいのは朝起きてうがいをしてください。そして、そのときに足10本の指で地球を支えてやるという感覚で立ち、ガラガラガラ〜と息が続くだけうがいをしてください。これを毎日2〜3回やると、それだけで、健康状態が俄然変わります」

──引退は考えていませんか。

「考えませんね。これでやり尽くしたと思うことはないでしょうから、生きている間は精一杯、楽しくやろうと思っています。

何よりも合唱音楽が好きなんです。1秒間に何振動とする音が、私の指揮でピタリと合う瞬間というのは実は奇跡に近い、究極の物理現象です。それが合ったときと、そうでないときでは空気の状態が全く異なります。

オーケストラよりも合唱をする人間の声の方がデリケートなので、ちょっとしたことでも影響を受けやすい。それがうまく合う奇跡のような、最高の瞬間の空気を体感できる喜びを、私は合唱の他に知りません」

●田中信昭(たなか・のぶあき)
昭和3年、新潟県生まれ。昭和31年、東京藝術大学卒業と同時に声楽科有志と「東京混声合唱団」を創設。常任
指揮者として活躍。傍かたわら作曲家の協力を得て日本の合唱音楽を創造し、450曲を超える現代合唱曲を初演。平成9年、桂冠指揮者。オーケストラ公演の合唱指揮を多数務め、オペラの指揮も手掛ける。平成12年、勲四等瑞宝章受章。平成28年、文化功労者。

※この記事は『サライ』本誌2017年2月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/齋藤亮一)

 

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