発案者は意外な人物!難攻不落の「秀吉の大坂城」落とした家康の作戦

監修/萩原さちこ 取材・文/平野鞠

城の基礎知識や、名将達の戦略について掘り下げていくこの連載。前回の記事、「なんと3倍の兵に大勝!毛利元就が飛躍した郡山合戦舞台の吉田郡山城」では、毛利元就が大勝利をおさめた籠城戦の戦略についてご紹介しました。

今回のテーマは「大坂城」。現在でも訪れると、そのスケールの大きさに思わず「さすが太閤秀吉の城!」と言いたくなってしまうかもしれませんが、豊臣秀吉の大坂城のスケールはこんなものではありませんでした。

■難攻不落の大坂城を落とした徳川軍の作戦

大坂城といえば、戦国の乱世最後にして最大の攻城戦「大坂の陣」の舞台となった城。攻め手の徳川家康が、まず1614年の「冬の陣」で20万の兵で豊臣軍10万超を攻撃し、いったん講和を成立させ、そして翌年の「夏の陣」でとどめを刺したことはよく知られています。

家康が一度で決着をつけなかったのは、大坂城の堅牢さゆえの作戦でした。秀吉自身が「誰もこの城は落とせない」と豪語した難攻不落の大坂城。その攻略法を家康が知ったのは、他ならぬ生前の秀吉本人からだったとする説があります。

その攻略法とは、まず力づくで攻めてから、和睦を結んで堀を埋め、その後大軍で一気に攻めるというもの。家康は、冬の陣、夏の陣でその作戦の通りに戦ったのです。

和睦を結んで外堀を埋め立てた家康が、あっという間に二の丸まで埋め尽くすと、もはや堀を失った大坂城には戦闘力など残されていませんでした。そして、ふたたび挙兵した家康軍は、難なく大坂城を落とすことができたのです。

■いまだ謎だらけの「豊臣大坂城」

豊臣家の滅亡後、徳川幕府によって大坂城が再建されることになります。しかしその際、幕府は天守だけでなく、盛り土をして埋め立て、その上で門、櫓、石垣をつくりました。こうして秀吉時代の大坂城は、この地上には何一つ存在の痕跡をとどめずに消えてなくなりました。

そのため、いまだに謎の多い豊臣大坂城。本丸、二の丸、三の丸を総構で囲んだ大城郭で、その総面積は現在の約4倍とされていますが、築城から400年以上経った現在でも新事実が出てくることもしばしば。ミステリアスな存在であることもまた、秀吉の築いた大坂城の魅力といえるでしょう。

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いかがでしたか。今後「豊臣大坂城」にどんな新事実が発覚するのか、期待したいですね。詳しくはぜひ、『戦国大名の城を読む』をご覧ください。

取材・文/平野鞠
監修/萩原さちこ

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)
1976年、東京都生まれ。青山学院大学卒。小学2年生で城に魅せられる。 大学卒業後、出版社や制作会社などを経て現在はフリーの城郭ライター・編集者。 執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座、ガイドのほか、「城フェス」実行委員長もこなす。 おもな著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、 『お城へ行こう! 』(岩波ジュニア新書)、『今日から歩ける 超入門 山城へGO! 』(共著/学研パブリッシング)など。 公益財団法人日本城郭協会学術委員会学術委員。

【出典】
『戦国大名の城を読む』
(萩原さちこ・著、本体760円+税、SBクリエイティブ)
http://www.sbcr.jp/products/4797372359.html

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