おいどんは清正公に負けた…西郷どんも実感した「熊本城」最強の理由とは

監修/萩原さちこ 取材・文/平野鞠

城の基礎知識や、名将達の戦略について掘り下げていくこの連載。前回の記事、「底には意外な罠も!城の防備の要「堀」を使った戦い方とは」では、城の周りをぐるりと囲む堀に隠された工夫や、ユニークな特徴を持つ堀についてご紹介しました。

今回のテーマは熊本城です。2016年の地震で甚大な被害を受けた熊本城。その修復には長い年月を要しますが、「熊本城を復興のシンボルに」という声が広がっているといいます。

地震から1年を迎える今、美しく、力強い熊本城の魅力をお伝えできればと思います。

熊本城を築いたのは、戦国時代屈指の築城名人といわれた加藤清正。彼の技術と経験の集大成である熊本城は、最強の軍事施設といえるでしょう。

まずなんといっても、熊本城の代名詞といえば「清正流石垣」。約45度の緩い勾配から始まり、だんだん弧を描きながら、最上部はほぼ垂直に立ち上がるのが特徴で、たとえ敵が石垣を登ったとしても、途中で振り落とされてしまうため「武者返し」の異名をとります。

また、迷路のようにジグザグに折れ曲がる通路も「難攻不落の城」といわれるゆえん。右へ左へと曲がる通路では、全速力で走ることが不可能なうえ、どちらに進めばいいのかと常に考えなければならず、敵を肉体的にも精神的にも疲弊させることができるのです。

清正は慶長の役で過酷な籠城戦を経験したため、熊本城には籠城戦を耐え抜くための備えをかなり入念に施しました。

築城から270年後に勃発した西南戦争では、熊本城が新政府軍の拠点となり、西郷隆盛率いる薩摩軍と戦火を交えることとなりました。熊本城の籠城軍はわずか3300という少人数でしたが、3日間にわたって薩摩軍の一斉攻撃に耐え、一人の城内侵入も許しませんでした。

その後も、籠城軍は新政府軍が到着するまで耐え忍び、52日間の籠城戦を制しました。最後まで熊本城を攻略できなかった薩摩軍は全壊し、西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と言い放ったといいます。

270年の時を経て、清正が築いた熊本城の堅牢さが証明されることとなりました。

*  *  *

日本三大名城の一つでもある熊本城。今後どのように復旧・復元していくのか、議論と工事が続けられることでしょう。その歩みを私たちも見守っていきたいものです。

次回も城に関するトピックをお届けします。詳しくはぜひ、『戦国大名の城を読む』をご覧ください。

取材・文/平野鞠
監修/萩原さちこ

萩原さちこ(はぎわら・さちこ)
1976年、東京都生まれ。青山学院大学卒。小学2年生で城に魅せられる。 大学卒業後、出版社や制作会社などを経て現在はフリーの城郭ライター・編集者。 執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座、ガイドのほか、「城フェス」実行委員長もこなす。 おもな著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、 『お城へ行こう! 』(岩波ジュニア新書)、『今日から歩ける 超入門 山城へGO! 』(共著/学研パブリッシング)など。 公益財団法人日本城郭協会学術委員会学術委員。

【参考図書】
『図説・戦う城の科学 古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防のすべて』
(萩原さちこ・著、本体1,100円+税、SBクリエイティブ)
http://www.sbcr.jp/products/4797380781.html

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