幕政への登用と定信の信任
天明4年(1784)に奏者番(そうじゃばん)に任命されたのを皮切りに、信明は幕政に本格的に関与し始めます。天明8年(1788)、松平定信の信任を得て、側用人、続いて老中に抜擢。さらに、同年5月には従四位下、同年末には侍従にも任じられ、急速に地位を高めました。

この時期は、田沼政治が終焉を迎え、幕府の刷新が求められていた時代。信明は定信と協力し、贅沢を戒め、規律を正す「寛政の改革」に大きく関わっていきます。
「寛政の遺老」としての活躍
寛政5年(1793)、松平定信が政界を去ると、信明はその改革路線を継承し、老中首座として引き続き幕政を支えました。これが「寛政の遺老」と称されるゆえんです。
享和3年(1803)に一度は病により老中を辞任しますが、文化3年(1806)には再び老中として復帰。その後も筆頭老中として重責を担い続け、文化14年(1817)に58歳で没するまで幕政の中心に立ち続けました。
政治手腕と逸話
信明には、将軍・徳川家斉の奢侈を戒めたり、その側近たちの規律を正したという逸話が残されています。また、『寛政重修諸家譜』の完成にも携わり、編集責任者として八丈織十反の褒賞を受けています。こうした事績は、単なる名門の後継者にとどまらず、実務に長けた実力者であったことを物語っています。
まとめ
松平信明は、激動の江戸後期において、安定志向の改革政治を着実に実行した「縁の下の力持ち」のような存在です。信明の政治人生は、松平定信というカリスマの陰に隠れがちですが、その忠実な協力者であり、後継者として改革の灯を消さずに守り続けた姿勢には、多くを学ぶべきものがあります。
「知恵伊豆」と称された松平伊豆守信綱(のぶつな)の7代目の子孫にあたるので「小伊豆」の異名をもって政の中枢を担った松平信明。その生涯は、江戸幕府の持続可能性を模索し続けた誠実な努力の軌跡といえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
