はじめに-平賀源内とはどんな人物だったのか?
平賀源内(ひらが・げんない)は、江戸時代中期に活躍した人物です。発明家として広く知られていますが、本草学(中国の薬物学)者でもあり戯作者でもあります。奇抜な発想と、類まれなる才能を持っていた源内。そのため、「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称されることもあります。
エレキテル(静電気発生機)の修復に成功したことで知られている平賀源内。自由気ままに生き、江戸の世で異彩を放った天才というイメージがありますが、実際の平賀源内はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』では、田沼時代に本草学者として活躍した人物(演:鈴木杏)として描かれます。
目次
はじめに―平賀源内とはどんな人物だったのか?
平賀源内が生きた時代
平賀源内の足跡と主な出来事
まとめ
平賀源内が生きた時代
平賀源内は、享保13年(1728)に生まれます。源内が生まれた頃は、8代将軍・吉宗が「享保の改革」を行い、幕政を支えていた時期にあたります。そして、彼の幼少期には、10代将軍・家治(いえはる)のもとで、田沼意次(たぬま・おきつぐ)が老中として活躍していました。
蘭学の奨励や商業の発展を目指した「田沼時代」に、源内は多方面で素晴らしい才能を開花させることとなるのです。
平賀源内の足跡と主な出来事
平賀源内は、享保13年(1728)に生まれ、安永8年(1780)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
長崎に遊学、西洋文化に感銘を受ける
平賀源内は、享保13年(1728)、讃岐国(現在の香川県)の足軽・白石茂左衛門の子として生まれました。白石家の祖先は戦国時代、武田氏に滅ぼされた平賀玄信であり、その後、奥州白石で伊達氏に仕えたことで、白石という姓に改めたと言われています。そのため、源内は家督を継いだ後、先祖にちなんで「平賀」姓を名乗るようになったのです。
源内は、幼少期から鬼才ぶりを発揮していました。12歳の頃、御神酒を供えると、掛け軸に描かれた天狗の顔が赤くなる「御神酒天神(おみきてんじん)」という仕掛けを作り、話題を呼んだという逸話が残されています。
13歳になると、本草学や儒学を学ぶようになった源内。寛延2年(1749)、父の死に伴い家督を相続し、3年後の宝暦2年(1752)、藩の許可を得て初めて長崎へと遊学することになります。本草学研究のため、長崎へと向かった源内ですが、オランダ語や医学、油絵などを知り、西洋文化に大変感銘を受けたそうです。
長崎遊学の際に、西洋の技術に接したことが、その後の源内の人生に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
江戸へと旅立つ、日本初の博覧会を開催する
宝暦4年(1754)、帰郷した源内は家督を妹婿に譲り、脱藩して江戸へと向かいます。宝暦6年(1756)、江戸に渡った源内は、本草学者の田村藍水(たむら・らんすい)の門に入りました。そしてその翌年、藍水を説いて、湯島で第一回薬品会を開催することとなったのです。
薬品会は、現在で言うところの物産博覧会のようなもので、当時は日本初の試みとして大いに話題を呼びました。さらに、源内は動植物などの展示も行い、人気を博したそうです。これ以降、薬品会は毎年のように開催されることとなります。
また、源内は出品物の中から主要品目を選出し、実証的な解説や挿絵をつけた『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』と呼ばれる博物学書を刊行しています。これは、日本の博物学における画期的な業績として、現在でも高く評価されているのです。
【田沼意次のもとで大活躍する。次ページに続きます】