謙徳公というのは諡(おくりな/死んだ人の生前の徳や行ないにもとづいて贈られる称号)で、生前の名前は藤原伊尹(これただ/これまさ)といいます。娘が冷泉天皇の女御となり、のちの花山天皇を生んだことから、摂政・太政大臣にまで昇格。藤原兼家の兄でもあります。
歌人としても優れ、家集に『一条摂政御集』があるほか、和歌所別当に任命されて『万葉集』の読解や『後撰和歌集』の選集を行ないました。容姿と才知に恵まれ、女性関係も華やかだったと伝えられています。
謙徳公の百人一首「あはれとも~」の全文と現代語訳
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
『小倉百人一首』45番に収録されています。現代語訳は、「私のことをかわいそうだと言ってくれるはずの人はほかには誰も思い浮かばず、きっと私はむなしく死んでいくのだろうなぁ」。
才色兼備の貴公子にしては、切ない歌ですね。「あはれ」は、「かわいそう」「気の毒」という意味で、「とも」の「も」は強調の係助詞。「いうべき」は当然の意味の「べし」の連体形で、「人」はこの場合「最愛の人」を指します。
「思ほえで」は、「思ほゆ」の未然形で「思い浮かぶ」。「で」は打ち消しの接続助詞ですので、「思い浮かばず」になり、「身のいたづらに」の「いたづら」は、はかない、空しい、役に立たない。「身がはかない」で、死を意味する表現になります。
「なりぬべきかな」の「ぬ」は強意の助動詞、「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形で、「なりぬべきかな」は「きっとなってしまうにちがいないのだろうなぁ」という意味です。
この和歌が誕生した背景
『拾遺和歌集』より。詞書は、「もの言い侍りける女の、後につれなく侍りて、さらにあわず侍りければ」。つまり、「言い寄った女性が冷たくなって、さらに会ってもくれなくなった」から詠んだ歌、と実にわかりやすい背景があります。
「私のことをかわいそうだと思ってくれる人は、あなたのほかには思い浮かばないのに……」という嘆きの歌ですが、『一条摂政御集』によると、女性からの返歌は、「なにごとも 思ひ知らずは あるべきを またはあはれとは たれかいふべき」(何事も知らなければそういうこともあったでしょうが、今更かわいそうなどと誰が言うでしょうか)。失恋の原因は、謙徳公自身にあったようです。
謙徳公が詠んだ有名な和歌は?
恋愛にはとにかく積極的だった、謙徳公。その恋の歌を、ひとつの有名な哀傷歌とあわせて紹介します。
1:いにしへは 散るをや人の 惜しみけむ 花こそ今は 昔恋ふらし
「昔はあの人が花の散るのを惜しんだだろう。けれど今では花のほうが昔(亡き人)を恋しがっているようだ」
『拾遺和歌集』の詞書に、「中納言敦忠まかりかくれてのち、比叡の西、坂本に侍りける山里に、人々まかりて花見侍りけるに」とあります。つまり、中納言敦忠(あつただ)が37歳の若さで亡くなったあと、比叡山の坂本で人々と花見をしたときに詠まれた和歌。藤原敦忠は歌人として名高く、三十六歌仙のひとりにも選ばれています。坂本に風流な山荘を構えていました。
2:暮ればとく 行きてかたらむ 逢ふことの とをちの里の 住み憂かりしも
「日が暮れたらすぐに訪ねて行って話しましょう。その名の通り都から遠すぎて逢うのも叶わなかった十市の里は、とても住みづらかったことですよ」
『拾遺和歌集』より、「春日の使にまかりて、かへりてすなはち女のもとにつかはしける」。春日祭の勅使として派遣された伊尹。帰るなり、「日暮れにはあなたのもとへ行きますよ」と和歌で伝えています。
3:隠れ沼(ぬ)の そこの心ぞ うらめしき いかにせよとて つれなかるらむ
「隠れ沼のように、思いを現してくれない心の底が恨めしい。私にどうしろというつもりで、あなたはそんなによそよそしいのでしょうか」
『拾遺和歌集』より、「侍従に侍りける時、村上の先帝の御めのとに、しのびて物のたうびけるに、つきなき事なりとて、さらに逢はず侍りければ」。隠れ沼という表現が印象的なこの和歌は、謙徳公が侍従の職にあったとき、村上天皇の乳母にそっと言い寄ったが、年の差があり、不釣り合いだと拒絶されたときに詠まれた歌です。
4:かなしきも あはれもたぐひ 多かるを 人にふるさぬ 言の葉もがな
「切ないとか、愛しいとか、恋心を表す言葉はいろいろあるけれど、人がまだ使い古していない言葉があってほしいものよ」
『新勅撰和歌集』に収録されている和歌。言葉や和歌を駆使して、女性に言い寄る伊尹時代の謙徳公の姿が思い浮かぶようです。
5:つらけれど 恨みむとはた 思ほえず なほゆく先を たのむ心に
「あなたの態度は冷たいけれど、それでも恨もうとは思えません。なおもこれからを期待する気持ちから」
『新古今和歌集』に収められています。冷泉天皇が皇子だった頃、その女房を見初めて詠んだ和歌です。
謙徳公、ゆかりの地
京都・奈良・滋賀に残る、謙徳公の足跡を辿ってみましょう。
1:一条院跡
謙徳公が生前に一条摂政と呼ばれたのは、一条に屋敷を構えていたからです。父・師輔(もろすけ)から伊尹、子・為光へと引き継がれた邸宅の跡は、現在は名和児童公園になっていますが、京都市による説明板が設置されています。
2:十市(とおいち)
十市は、現在の奈良県橿原市十市町あたりの古称です。和歌では、その呼び方にかけて、都から「遠い里」という意味でも使われました。春日祭は春日大社の勅祭で、謙徳公は、勅使(天皇の名代)として奈良に赴いていたのでした。
3:坂本
謙徳公が敦忠をしのんだ坂本は、平安時代から比叡山延暦寺の門前町として栄えました。現在、一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。謙徳公たちは比叡山の山桜を愛でていたのでしょう。
最後に
謙徳公(藤原伊尹)について、大鏡は次のように伝えています。「いみじき御集つくりて(見事な家集をお作りになって)」、「御かたち・身の才(ざえ)、何事もあまりすぐれさせたまへれば、御命のえととのはせたまはざりけるにこそ(容貌も学才もあまりに優れていたので、寿命を全うすることができなかったのですよ)」。48歳で亡くなった謙徳公。もう少し齢(よわい)を重ねたなら、どのような和歌を詠んだのでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
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アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●協力/嵯峨嵐山文華館
百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp