左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)とは、藤原道雅のこと。関白・藤原道隆(みちたか)を祖父に持ち、父は内大臣・伊周(これちか)と名門の出身ですが、伊周が大宰府に左遷されて以降、家は没落。道雅自身も出世とは縁の遠い人生を送りました。
中古三十六歌仙の一人で、特に、三条天皇の皇女・当子(とうし/まさこ)内親王との禁じられた恋の歌で知られています。
目次
左京大夫道雅の百人一首「今はただ~」の全文と現代語訳
左京大夫道雅が詠んだ有名な和歌は?
左京大夫道雅、ゆかりの地
最後に
左京大夫道雅の百人一首「今はただ~」の全文と現代語訳
左京大夫道雅の詠んだ恋の歌が、
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
『小倉百人一首』63番 の和歌です。現代語訳は、「今となってはもう、あなたへの思いをきっぱりと諦めてしまおうということだけを、人づてではなく、直接言う方法があってほしいものだなぁ」。
「今はただ」は「今となっては」。「思ひ絶え」は「思ひ絶ゆ」(「思いを断つ」「あきらめる」「断念する」)の連用形、「なむ」の「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形で、「む」は意志を表し、「あきらめてしまおう」となります。
「とばかりを」の「と」は引用の格助詞、「ばかりを」は限定を意味し、「ということだけを」。「人づてならで」の「で」は打ち消しですので、「人づてはなく(直接に)」。「言うよしもがな」の「よし」は方法や手段、「もがな」は願望を表し、「言う方法があってほしいものだ」という意味になります。
この和歌が誕生した背景
この一首は、道雅と当子内親王との実話による歌です。
『後拾遺和歌集』の詞書には、「伊勢の斎宮(さいぐう/いつきのみや)わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけも聞こしめして、守り女(め)など付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、詠み侍りける」とあります。
ここでいう伊勢の斎宮は、当子内親王のこと。三条天皇の譲位を受けて伊勢の斎宮の任を終え、都へ戻った内親王のもとへ、道雅は密かに通うようになります。しかし、これが三条院の耳に入り、院は激怒。それもそのはず。当時、従三位だった道雅は、「荒三位」「悪三位」と呼ばれるほど乱暴狼藉を働いていたといわれます。
三条院が当子内親王に見張りの女房を付けたため、道雅は内親王のもとへ通うことができなくなりました。このときに詠んだ歌というわけです。
その後、当子内親王は自ら髪をおろして出家……。悲しみの中、23歳で亡くなりました。道雅も三条院より勘当を受けますが、のちに「左京大夫」として復位しました。
左京大夫道雅が詠んだ有名な和歌は?
『後拾遺和歌集』には、「今はただ~」を入れて、当子内親王に失恋したときの和歌が4首並んで採られています。これはほかに例のないことです。
1:あふ坂は 東路とこそ きゝしかど 心つくしの 関にぞありける
「逢坂の関は、東路(あずまじ)へ通じる道と聞いていたけれど、逢坂の関と思っていたのは、精魂を使い果たすような筑紫の関だったのだなぁ」
「逢坂」と「逢ふ」、「東」と「吾妻」、「筑紫」と「尽くし」を掛け、恋人に逢っても我が妻とできない苦しさを詠んでいます。筑紫は現在の北部九州。京からみれば心が折れるような遠い距離ですね……。
2:榊葉の ゆふしでかけし そのかみに をしかへしても わたるころかな
「斎宮時代のあなたは榊葉(さかきば)に木綿(ゆう)を垂らして神に仕えておいででした。そんな昔に戻されてしまったようです」
「ゆうしで」とは木綿(ゆう)を垂らすこと、または垂らした木綿のことです。「木綿」は主に幣 (ぬさ) として、神事の際に榊の枝に掛けられました。そのように、あなたが神に奉仕して手の届かない存在だった頃に戻されたようだ、と会えなくなった現状を嘆いています。
3:みちのくの をだえの橋や これならむ ふみゝ踏まずみ こゝろまどはす
「陸奥の緒絶(おだえ)の橋というのはこれだろうか。手紙があったりなかったりする度に心をまどわせるから。いつ断ち切れるかもしれない橋を踏んだり踏まなかったり、びくびくしながら渡るようなものです」
緒絶の橋は歌枕で、恋の不安を表すときに使われます。ここでは、橋に“踏み”と“文”を掛けています。
4:もろともに 山めぐりする 時雨かな ふるにかひなき 身とはしらずや
「私と共に寺めぐりをしようというのか、時雨よ。降る甲斐がない、生きている値打ちもないこの身だと知らないのか」。
こちらは『詞花集』より。東山の寺を回って参拝していた時に降り出した雨を、自分の道連れのように詠んだ歌です。当子内親王と引き裂かれた道雅の、生きる甲斐もなくなってしまっている虚しさが感じられます。
左京大夫道雅、ゆかりの地
和歌に詠まれた2つの枕詞。その場所をご紹介しましょう。
1:逢坂の関(おうさかのせき)
歌枕としても名高い逢坂の関は、京と近江にまたがる峠道にあった関所。京からここを越えれば東国とされました。現在は、国道1号線逢坂山峠の頂上に逢坂山関趾碑が立ち、逢坂の関記念公園が整備されています。
2:緒絶橋(おだえばし)
宮城県古川市にある橋。平安時代に嵯峨天皇に愛された姫が、皇后の嫉妬により都を追われ、身を投げたという伝説のある緒絶川に架かる橋です。道雅の和歌により、歌枕として広く知られるようになりました。
最後に
家の没落により出世の道が閉ざされた、左京大夫道雅。若い頃は荒三位、悪三位と呼ばれるほど数々の狼藉を働いていたようです。そのようななかで芽生えた当子内親王との恋。悲恋を通して生まれた和歌は、読む者の心を打つ名歌として、後世にまで伝えられることとなりました。
そして、晩年の左京大夫道雅は、八条の別荘に閑居して、障子絵歌合を行うなど和歌を嗜みながら平穏な生活を送ったといいます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●協力/嵯峨嵐山文華館
百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp