相模(さがみ)は、中古三十六歌仙のひとり。大江山の鬼退治などの武勇で知られる、源頼光(よりみつ)の娘もしくは養女とされ、相模守・ 大江公資 (きんより) と結婚したことから、相模の名で呼ばれるようになりました。しかし、夫とは不仲で、悩みが絶えず、権大納言定頼(藤原定頼)などとの恋愛を経て、離婚に至ります。

そののち、一条天皇の第一皇女・脩子(しゅうし)内親王に仕え、本格的な歌壇活動は40歳を過ぎてからでした。70歳前後で亡くなるまで、後半生は歌人として名を馳せ、歌論集『八雲御抄(やくもみしょう)』では、赤染衛門や紫式部と並ぶ女流歌人として高く評価されています。

相模 『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)
相模 『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

目次
相模の百人一首「恨みわび~」の全文と現代語訳
相模が詠んだ有名な和歌は?
相模、ゆかりの地
最後に

相模の百人一首「恨みわび~」の全文と現代語訳

恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ

『小倉百人一首』65番の和歌です。現代語訳は、「恨み悲しみ、涙で乾くひまもない袖さえ朽ちずに残っているのに、恋の噂で朽ちてしまうだろう私の評判が惜しいことです」。

「わび(侘び)」は悲観する、辛いと思う、という意味。「ほさぬ袖」とは、「乾くひまもない袖」で涙に濡れていること、「だに」は「惜し」を補うものとして解釈されます。

「恋にくちなむ」の「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形で、「む」は推量の助動詞「む」の連体形です。「名」は「評判」の意味。「こそ」は前の語、ここでは「名」を強調しています。「こそ」が使われると文末は已然形となり、「惜しけれ」となるのが、係り結びの法則です。

相模 『百人一首画帖』より
(提供:嵯峨嵐山文華館)

この和歌が誕生した背景

『後拾遺和歌集』の詞書に、「永承六年内裏歌合に」とあります。詠題の恋に対して詠んだ歌で、相模は源隆俊(みなもとのたかとし)と競詠して勝利しました。このとき相模は50歳を超えていたといい、実際の恋の歌ではありません。

しかし、「つれない相手を恨んで悲しみ」、さらに「恋の噂によって自分の評判が落ちてしまう」という二重の苦しみは、夫との不和や孤独、権中納言定頼などとの恋と破局といった、うまくいかない相模の恋愛経験が背景にあると推察されます。

相模が詠んだ有名な和歌は?

読む者の心を打つ相模の愛の歌や恋の歌。そのいくつかを紹介しましょう。

1:光あらむ 玉の男子(をのこご) 見てしがな かき撫でつつも 生(お)ほしたつべく

「輝く玉のような男の子を見てみたい(お授けください)。慈しんで撫でながら育て上げるに違いない子を」

『相模集』より、詞書は「子をねがふ」。相模は夫の赴任先である相模国に住んでいたとき、走湯権現(はしりゆごんげん)に参詣し、百首を奉納しています。夫の浮気などに悩んでいましたが、一方で夫婦の平穏な生活も望んでいたようで、子を授かりたいという切なる思いが伝わってきます。

2:いつくしき 君が面影 あらはれて さだかにつぐる 夢をみせなむ

「気品のあるあなたの姿が現れて、はっきりと思いを告げる夢を見せてほしい」

この和歌も、走湯権現に奉納されたなかの1首です。いつくしき君は、定頼とも敦貞親王ともいわれています。苦しみながらも夫を思い子を願いつつも、相模の心は都にあったようです。

3:逢ふことの なきよりかねて つらければ さてあらましに 濡るる袖かな

「まだ逢っていないうちから、このように辛い思いがするので、あなたとの恋の成り行きを思うと、その先どんなことになるのだろうと私の袖は涙に濡れています」

「恨みわび~」よりも前、この時も涙で袖を濡らしている相模。『後拾遺和歌集』に収められている歌です。

詞書は、「公資に相具して侍りけるに、中納言定頼しのびておとづれけるを、ひまなきさまをや見けむ、絶え間がちにおとなひ侍りければよめる」。つまり、大江公資と夫婦であった頃、定頼がしのんで訪れていたが、近頃は暇がないようで、それも途絶えがちになった。そこで、定頼にこの和歌を贈ったというのです。

逢えないのも辛いけれど、ふたりの仲が深くなったその先はもっと辛いのではないか、という女性の複雑な心情が表れています。

4:若草を こめてしめたる 春の野に われより外の すみれつますな

「(あなたは)春の野を独占して、若草(私)を我がものとしていたはず。私以外のすみれを摘まないでください」

『相模集』より。この場合、すみれは=女性ですね。夫の浮気が発覚したときの歌といわれています。

『相模集』には、次のような、走湯権現からの返歌が収められています。「なにか思ふ なにをか嘆く 春の野に 君よりほかに すみれつませじ」(何を煩うのですか、何を嘆くのですか。春の野にあなた以外のすみれを摘ませたりはしません)。返歌の作者は誰なのか、定かではありません。相模権現の僧とも相模本人との説もあります。

5:たのむるを たのむべきには あらねども 待つとはなくて 待たれもやせむ

「待っていてくれ、と頼んであてにさせるあなたを信頼すべきではないけれど、待つつもりはなくてもやはり待ってしまうのでしょうか」

これも切ない歌です。『後拾遺和歌集』より。待っていてくれと頼んだのは定頼なのでしょうか、別の男性なのでしょうか……?

相模、ゆかりの地

相模が歌百首を奉納した走湯神社とは、どういうところなのでしょう。

走湯権現(伊豆山神社)

万寿元年(1024)正月、相模は走湯権現の社頭の地中に和歌百首を収め、その返歌百首を受けて、また次の和歌を奉納しました。熱海市にある走湯権現は、伊豆山神社の古称のひとつで、湧き出る霊湯「走り湯」が由来となっています。今は、走り湯を中心に伊豆山温泉が広がっています。

最後に

相模は夫とうまくいかずに離婚。いく人かの貴族男性と恋をしますが、それも成就することはありませんでした。そうした辛い経験が糧となり、数々の恋の秀歌が誕生します。『小倉百人一首』を編纂した藤原定家も、相模の恋愛歌が好きだったよう。

実際、定家撰の歌集には彼女の歌が多く採用されています。相模は遅咲きながら、晩年まで数々の歌合に召されるなど、歌人として高く評価され恵まれた後半生を送ったのです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)

●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp

 

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