恋多き奔放な女性、として知られる和泉式部(いずみしきぶ)は、当代随一ともいえる和歌の名手であり、教養豊かな人物でした。藤原道長が「浮かれ女(め)」と評しながら、娘・彰子(しょうし/あきこ)への出仕を願ったのも、その証といえるでしょう。恋と和歌は、和泉式部の人生そのものだったといえそうです。
目次
和泉式部の百人一首「あらざらむ〜」の全文と現代語訳
和泉式部が詠んだ有名な和歌は?
和泉式部、ゆかりの地
最後に
和泉式部の百人一首「あらざらむ〜」の全文と現代語訳
和泉式部の百人一首は、情熱的な一首として知られています。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
第二句以外は母音で始まり、美しい調べを持つこの和歌は、『小倉百人一首』の56番に収められています。現代語訳は、「私の命はもうすぐ尽きてしまうことでしょう。せめてあの世へ持っていく大切な思い出として、あなたにもう一度だけお会いしたいものです」
冒頭の「あら」とは、存在すること、存在するものの意味がある「あり」の未然形で、「ざらむ」は打ち消しの「ず」の未然形+推量の「む」。そのあとに「この世の外(ほか)の」、つまり、現世の外の死後の世界を表す言葉が続きますので、全体の意味は、「命が尽きるでしょう」。出だしから印象的な表現になっています。末尾の「がな」は願望を表し、「会いたいなぁ」という意味です。
この和歌が誕生した背景
出典は『後拾遺和歌集』で、その詞書(ことばがき)には「心地例ならずはべりけるころ、人のもとにつかはしける」とあります。「体調がすぐれずにおりました(病気をしてしまいました)ときに、恋しい人に送った歌」という意味ですね。
この恋しい人とは、誰のことでしょう。和泉式部は和泉国の国司だった橘道貞と結婚し、のちに女流歌人として知られることになる小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれます。しかし、冷泉(れいぜい)天皇の第3皇子・為尊(ためたか)親王との熱愛の末、離縁。為尊親王が亡くなるとその異母弟・敦道(あつみち)親王と恋愛関係になり、なんと親王邸に住まうことに。ふたりの親王とも若くして没し、失意の和泉式部は上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)に仕えたのち、藤原保昌(やすまさ)と再婚します。
恋しい人は、最初の夫の橘道貞、または『和泉式部日記』も綴られた敦道親王との説が有力のようです。この和歌の背景として、和泉式部のスキャンダルや恋愛劇が、人生の最後に会いたい恋しい人を謎にしている側面もあるのではないでしょうか。
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