一条天皇の中宮・彰子に仕え、文化サロンを形成するひとりとして活躍した伊勢大輔(いせのたいふ)。知名度はあまり高くないかもしれませんが、紫式部や和泉式部らとも親交があり、宮中では誰もが認める優れた歌人でした。その歌の魅力に触れてみましょう。
目次
伊勢大輔の百人一首「いにしへの〜」の全文と現代語訳
伊勢大輔が詠んだ名な和歌は?
伊勢大輔、ゆかりの地
最後に
伊勢大輔の百人一首「いにしへの〜」の全文と現代語訳
藤原道長も絶賛したと伝わる一首が、
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
『小倉百人一首』61番の和歌です。現代語訳は、「昔、奈良の都で咲いていた八重桜が、今日は宮中でいっそう美しく咲き誇っています」。
この和歌の特徴は、「いにしえ」と「けふ(今日)」、「八重」と「九重(ここのえ)」、さらには「奈良」と「京」など、わずか31文字の中に巧みな対比をちりばめていること。九重とは宮中の意味で、昔、中国の王城には門が9つあったことに由来しています。また、「の」が繰り返されることにより、響きが心地よく流れるような美しい歌に仕上がっています。
「にほひ」は香りのことではなく、花が美しく照り映えること、華やかな様子や栄華を表します。八重桜の美しさに一条天皇の御代の繁栄を称える気持ちを込めた見事な表現といえるでしょう。「ぬる」は強意の助動詞「ぬ」の連体形、「かな」は詠嘆や感動を表し、この場合、「咲き誇っていることだなぁ」となります。
この和歌が誕生した背景
この歌は、当時、京都では珍しかった八重桜が奈良から京の宮中へ献上されたときに詠まれたものです。その八重桜の枝を受け取って中宮彰子に奉る重責を担ったのが、伊勢大輔。『詞花和歌集』には、「一条院の御時、奈良の八重桜を、人の奉りて侍りけるを、そのおり、御前に侍りければ、その花をたまひて、歌詠めと仰せ言ありければよめる」とあります。つまり、その花を題材に「歌を詠めと言われたので詠みました」ということ。
『伊勢大輔集』によると、桜を受け取り捧げる大役を、紫式部が宮中では新人の伊勢大輔に譲ったこと、歌を詠むように言ったのは藤原道長であることが記されています。いわゆる歌人としてのメジャーデビューは、大成功。公家たちは大喜びし、中宮彰子より「九重に 匂ふをみれば 桜がり 重ねてきたる 春かとぞ思ふ(宮中に咲き誇る遅咲きの八重桜を見れば桜狩のよう。春が重ねて来たのかと思いました)」との返歌を賜りました。実はこの和歌は紫式部の代作と考えられています。
伊勢大輔が彰子に仕えたのは寛弘5年(1008)頃と考えられており、その年の春に、この和歌は誕生したのでしょう。
伊勢大輔が詠んだ有名な和歌は?
中古三十六歌仙、女房三十六歌仙に数えられる名高い歌人であった伊勢大輔。その代表的な歌を紹介します。
1:聞きつとも 聞かずともなく 時鳥 心まどはす さ夜のひと声
「聞こうと思って聞いたのでもなく、聞くまいとしても聞こえてきた時鳥(ほととぎす)の夜の一声が、私の心を乱してしまう」
数々の歌合で活躍した伊勢大輔の有名な和歌です。『後拾遺和歌集』によると、永承5年(1050)、関白左大臣頼通の賀陽院において、祐子内親王が主催した歌合での一首。朧(おぼろ)げな音や声に、あれは空耳だったのかと、心惑わされるような夜を経験したことのある人は多いのではないでしょうか。
2:わかれにし その日ばかりは めぐりきて いきもかへらぬ 人ぞ恋しき
「死に別れたその日ばかりが何度もめぐってくるのに、生き返らない人が恋しくてたまらない」
出典は『後拾遺和歌集』で、夫・高階成順(たかしなのなりのぶ)の一周忌の法要ののちに詠んだ哀傷歌。「いきかへらぬ」は「行き帰らない」と「生き返らない」の掛詞(かけことば)です。
良き妻、母でもあった伊勢大輔。『古本説話集』には、成順は「いみじうやさしかりける人(とても優雅な人)」だと記されています。幸せな結婚生活だっただけに、悲しみは一層だったことでしょう。
3:うれしさは 忘れやはする 忍ぶ草 しのぶるものを 秋の夕暮
「(あなたがたびたび見舞ってくださった)うれしさは忘れることができるでしょうか? いいえ、忘れることなんてできません。忍ぶ草ではありませんが、耐え忍ぶような気持ちで、その喜びをしみじみと思い返しています。秋の夕暮れに…」
『新古今和歌集』より。病気から回復したとき、たびたび見舞いに来てくれていた大納言・源経信(みなもとのつねのぶ)に送った歌です。先輩歌人として尊敬する伊勢大輔から歌を贈られたことを喜ぶ、経信の返歌も残っています。
伊勢大輔、ゆかりの地
伊勢大輔ゆかりの地としては、その名の由来や奈良の都の八重桜にまつわる場所があげられるでしょう。
1:伊勢神宮
伊勢大輔は、代々歌詠みの家系に生まれました。父の大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)は、伊勢神宮の祭主・神祇大副(じんぎのたいふ)でもあり、このことから伊勢大輔と呼ばれました。
2:興福寺
和歌にある八重桜は興福寺から献上されたものとの説があります。平安時代後期の巡礼の記録『七大寺巡礼私記』によると、奈良の都の八重桜は、興福寺に当時存在していた東円堂にあり、その桜は遅咲きであると書かれています。彰子の伊勢大輔への返歌と重なりますね。
3:大極殿跡
天皇が住み,儀式や執務などを行う場所を大内裏(だいだいり)といい、その中心をなす建物が大極殿でした。現在は、京都市上京区千本通丸太町上ルの児童公園内に「大極殿遺跡」の石碑があります。大内裏へは伊勢大輔ら女房たちも出仕していました。
最後に
歌人の家系に生まれた伊勢大輔。「いにしへの〜」の歌は、藤原道長の一声により即興で詠まれたものですが、そのプレッシャーたるや想像を超えるものがあったことでしょう。伊勢大輔は、共に彰子に仕える和泉式部、 紫式部、 馬内侍(うまのないし) 、赤染衛門(あかぞめえもん)らとともに五歌仙と呼ばれ、豊かな教養と和歌の才能は宮中で高く評価されることになります。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『全文全訳古語辞典』(小学館)
文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
校正/吉田悦子
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●協力/嵯峨嵐山文華館
百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp