赤染衛門(あかぞめ・えもん)は、平安時代中期の女流歌人です。三十六歌仙にも選ばれ、優れた歌人として長く活躍することとなりました。その才能を認められ、藤原道長の正妻・倫子(りんし/ともこ)や、その娘・彰子(しょうし/あきこ)の女房として仕えました。
赤染衛門が詠んだとされる歌は数多く残されていますが、その中でも特に有名なのが『小倉百人一首』にある「やすらはで〜」の歌ではないでしょうか? 小倉百人一首の中には、現代を生きる私たちでも強く共感できる歌がたくさんあります。本記事では、切ない恋心を詠んだ赤染衛門の百人一首について、ご紹介いたします。
目次
赤染衛門の百人一首「やすらはで」の全文と現代語訳
この和歌が誕生した背景
赤染衛門が詠んだ有名な和歌は?
赤染衛門、ゆかりの地
最後に
赤染衛門の百人一首「やすらはで〜」の全文と現代語訳
道長の妻・倫子や、その娘の彰子の女房として仕えていた赤染衛門。優れた歌人として高く評価された赤染衛門は、藤原氏を中心とした宮廷貴族の生活を描いた『栄花物語』の作者といわれることもあります。また、紫式部や清少納言、和泉式部ら歌人とも交流があったそうです。
紫式部は、自身の日記である『紫式部日記』の中で、赤染衛門の歌才と温厚篤実な性格を高く評価しています。代筆を依頼されるほどの優れた才能を持っていた赤染衛門の和歌は、『小倉百人一首』にもまとめられています。それが、
やすらはで 寝なましものを さよふけて 傾(かたぶ)くまでの 月を見しかな
という和歌です。
『小倉百人一首』の中では59番目にまとめられている、赤染衛門の和歌。現代語訳すると、「こんなことなら、あれこれ考えずに寝てしまえばよかった。あなたを待っているうちに夜が更けて、西に傾いて沈んでいく月を見てしまいましたよ」という意味になります。
この和歌が誕生した背景
相手が来るのを今か今かと待ち焦がれる心情を詠んだ、「やすらはで〜」の和歌。この歌は、『後拾遺和歌集』(平安時代後期の和歌集)に掲載されており、和歌が誕生した背景についても記されています。
それによると、道長の兄・藤原道隆(みちたか)が少将だった頃、赤染衛門の姉妹に「今晩会いに行く」と約束したにもかかわらず、姿を見せなかったそうです。その翌朝、待ちくたびれた姉妹に代わって詠んだのが、「やすらはで〜」の和歌であるとされます。
現代とは違い、当時は男性が女性の家を訪れて一夜を共にする「通い婚」が主流でした。女性は、訪れてくる男性から貰った贈り物や金品で生活していたと考えられています。そのため、男性が自分のもとを訪れるかどうかは、女性にとって非常に重要な問題だったのです。
「やすらはで〜」の和歌からも、「こんなに待ったのに、どうして来てくれなかったのですか」という、女性側の落胆する心情を読み取ることができます。
赤染衛門が詠んだ有名な和歌は?
優れた歌人として名を馳せた、赤染衛門。残されている歌には、どのようなものがあるでしょうか? ここでは、赤染衛門が詠んだ有名な和歌について紹介します。
1:代らむと 思ふ命は 惜しからで さても別れむほどぞ悲しき
これは、『今昔物語集』(平安時代末期の説話集)に登場する歌で、息子の挙周(たかちか)について詠んだものです。現代語訳すると、「代わってやりたいと思う私の命は惜しくありません。それよりも、我が子と永遠に別れてしまうことが悲しいのです」という意味になります。
挙周は、道長の命で和泉守(いずみのかみ)に任命されました。ところが、任国で挙周は病に倒れてしまいます。息子の病状を心配した赤染衛門は、この歌を幣(ぬさ)に記し、住吉明神に捧げたそうです。赤染衛門の切実な思いが神に届いたのか、挙周の病は快方に向かったとされます。
この歌からは、自分のこと以上に我が子を思いやる、優しい母の姿を垣間見ることができます。
2:我が宿の 松はしるしも なかりけり 杉むらならば たづね来なまし
こちらは、夫の大江匡衡(おおえの・まさひら)に向けて詠んだ歌です。現代語訳すると、「どれだけ待っていても、わが家の松にはあなたを惹きつける効力はないようです。松ではなく、稲荷社の杉むらならば、あなたはいそいそと尋ねてこられるのでしょう」という意味になります。
赤染衛門と夫の匡衡は、仲の良い夫婦として知られていました。しかし、匡衡が稲荷社の神官の娘のところに通いつめていた時期があったそうです。夫の浮気を知った赤染衛門は、稲荷社にいる夫に、この歌を送ったとされます。
赤染衛門の歌を見た匡衡は、恥ずかしくなってすぐに赤染衛門のもとに帰ったそうです。感情的になるのではなく、和歌で夫を諫めるところに、赤染衛門の教養の高さを窺うことができます。
赤染衛門、ゆかりの地
才気に溢れ、人望も厚かったとされる赤染衛門。彼女は、和歌や家集『赤染衛門集』の中で、鞍馬寺についてたびたび取り上げています。奈良時代末期に、鑑真の高弟が毘沙門天を安置する草庵を作ったことが始まりとされる鞍馬寺。
平安時代中期には、貴族や文人たちが数多く参詣するようになりました。『源氏物語』の第5帖「若紫」にも、鞍馬寺と思われる寺が登場します。また、清少納言は『枕草子』の中で、鞍馬寺について述べています。京都有数の観光地として人気のある鞍馬寺ですが、当時から多くの人々が参詣していました。
鞍馬寺の最寄り駅は、叡山電鉄の鞍馬駅です。本堂へは徒歩でも行くことができますが、ケーブルカーも利用できるため、その日の体調や目的に合わせて選択するのがおすすめです。
最後に
今回は、赤染衛門の百人一首「やすらはで〜」についてご紹介しました。和歌が詠まれた時代背景や、作者の心情について知ると、和歌の新たな一面が見えてくるようですね。本記事をきっかけに、百人一首の奥深さを感じていただければ、幸いです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
校正/吉田悦子
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●協力/嵯峨嵐山文華館
百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp