洒脱な人柄から、身分が高い御歴々からも好かれる

『今昔物語集』によると、賀茂祭の勅使となった元輔は、落馬し冠を落としたそうです。その時に、物見車に向かって丁寧な弁解をして人々を笑わせたとか。その時のことを表して、『今昔物語集』には「人咲ハスルヲ役トスル翁(おきな)」と書かれています。

こうしたエピソードが表すように、元輔は明朗快活で、機知に富み、暗さを微塵も感じさせない性格だったとか。そうした陽気な人柄は歌にもあらわれ、口にまかせて詠む速詠が得意だったそうです。

明るい性格が好まれ、小野宮実頼(おののみやさねより)や右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)、西宮左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)などの貴紳の邸宅に出入りして、祝宴や屏風の歌を詠んだとも言われています。

晩年まで歌壇で活躍

元輔は、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に107首入集しています。ほか、『小倉百人一首』には、「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは」(誓い合いましたね。お互いに、涙で濡れた袖を絞り合いながら。末の松山を波が越すなどありえないように、私たちの愛も決して変わりはしないと)が収められました。家集『元輔集』も残しています。

江戸時代の硯箱
『拾遺和歌集』に掲載された清原元輔の歌「わが宿の菊の白露今日ごとに 幾代つもりて淵となるらむ」によった意匠だと言われている。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/H-173?locale=ja

その後も周囲を明るくしながら、晩年に至るまで歌壇で活躍したそうです。

まとめ

元輔は79歳で肥後守(=現在の熊本県の国司)となりますが、決して身分は高くありませんでした。しかしながら、三十六歌仙の一人にも選ばれ、晩年まで歌を詠んだ人生は充実したものだったと言えるのではないでしょうか。

垢抜けた元輔の才は、娘の清少納言に引き継がれていったのでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/京都メディアライン
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB

引用・参考文献/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本人名大辞典+Plus』(講談社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本大百科全書』(小学館)

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