はじめに-藤原詮子とはどんな人物だったのか?
藤原詮子(ふじわらのせんし、もしくは、あきこ)とは、貴族社会の頂点に君臨した藤原兼家の娘で、道長の姉にあたる人物です。円融(えんゆう)天皇の女御(にょうご、天皇の寝所に侍する女性)となり、皇子を授かった詮子。
後に一条天皇となる皇子のことを溺愛したとされますが、まだ幼かったということもあり、冷泉(れいぜい)天皇の皇子が、花山(かざん)天皇として即位しました。そのため、次期天皇として息子を擁立したいと望んだ詮子は、父・兼家とともに策を練ることとなったのです。
末弟の道長を可愛がり、彼の出世に大きく貢献したとされる詮子。政治にも関心を示し、自分の考えをしっかりと持っていた強い女性というイメージがありますが、実際の藤原詮子はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、皇子を養育しながら、宮廷での勢力を拡大していった道長の姉(演:吉田羊)として描かれます。
目次
はじめに―藤原詮子とはどんな人物だったのか?
藤原詮子が生きた時代
藤原詮子の足跡と主な出来事
まとめ
藤原詮子が生きた時代
藤原詮子は、応和2年(962)に生まれます。詮子が生まれた頃、父・兼家は兄の兼通(かねみち)と対立を深めていました。激しい権力争いを展開させた両者ですが、兼通が亡くなったことで、兼家は氏長者(うじのちょうじゃ、一族の中の最高権力者)として、政界の頂点に君臨します。
そして詮子は、さらなる高みを目指した父とともに、皇子を天皇の位につけようと画策することとなるのです。
藤原詮子の足跡と主な出来事
藤原詮子は、応和2年(962)に生まれ、長保3年(1002)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
藤原兼家の子として生まれる
藤原詮子は、応和2年(962)、藤原兼家と時姫の子として生まれました。政界を牛耳っていた、藤原北家の権力者・兼家を父に持つ詮子。当時の貴族社会では、父親の社会的地位が子どもの出世にも大きく影響していました。そのため、詮子は生まれながらにして強い後ろ盾を持っていたのです。
父親が権力者ということもあり、天元元年(978)、詮子は円融天皇の女御になります。女御とは、天皇に仕える妃の中でも身分が高い女性のことで、主に上流階級の娘が選ばれていました。詮子は女御として、宮中で暮らすこととなったのです。
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