妹・定子の死。一筋の希望も消えた晩年
長保2年(1000)12月、妹・定子が第二皇女の出産時に死去。伊周はその亡骸(なきがら)を抱き、嘆き悲しんだといいます。実は定子は、伊周と隆家が左遷の命を受けた際、二条院に2人をかくまいました。しかし、強制捜査により、兄弟は捉えられたという経緯がありました。姉弟仲のよかったことが伺え、伊周の落胆もさぞかしと想像できます。
伊周の一筋の希望は、定子の産んだ敦康親王(あつやすしんのう)の立太子。しかし、一条天皇のもう一人の后であった彰子(しょうし/あきこ)が敦成親王(あつひらしんのう)を産んだことで、その望みも絶たれました。
それでも正二位に叙せられますが、叔母の高階光子(たかなしのみつこ/こうし)が彰子と親王を呪詛した罪で捉えられるなど、伊周は厳しい立場に。そのような中、伊周は寛弘7年(1010)、この世を去りました。36歳の若さでした。
【文才に優れ、容姿は「光源氏もかくありけむ」。次ページに続きます】