はじめに-源高明とはどのような人物だったのか

源高明(みなもとのたかあきら)は、醍醐天皇の第十皇子として生まれ、朝廷の実力者の娘を妻とし、行政機関トップに上り詰めます。しかしやがて、謀反の疑いでその座を追われ……。

光源氏のモデル候補の一人ともいわれる源高明。実際にはどのような人物だったのか、史実をベースに紐解きましょう。2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、政変により藤原氏に追い落とされながら、娘が藤原道長(ふじわらのみちなが)の妻になるという複雑な立場の人物として描かれます。

源高明

目次
はじめに―源高明とはどのような人物だったのか
源高明が生きた時代
源高明の足跡と主な出来事
まとめ

源高明が生きた時代

源高明が活躍した頃の朝廷では、藤原家同士が氏長者(うじのちょうじゃ)、すなわち政権トップの座を巡って競い、他の有力貴族も外戚となることで権力を得ようとする、魑魅魍魎(ちみもうりょう)たる争いが繰り広げられていました。

源高明の足跡と主な出来事

源高明は延喜14年(914)に生まれ、天元5年(982)に没しています。その足跡を、主な出来事とともに紐解いていきましょう。

高貴な家に生まれ出世の道にもぬかりなし!

源高明は、醍醐天皇の第十皇子として生を受けます。母は源周子(しゅうし/ちかこ)。延喜20年(920)、6歳で源氏姓を賜って皇族の身分を離れ、大蔵卿を経て、天慶2年(939)、参議に任じられ25歳で行政機関の最高幹部となりました。異母弟の村上天皇が即位すると、従三位に叙され、翌天暦元年(947)、権中納言に昇任しました。

高明は左大臣・藤原実頼(さねより)の二女を妻としていましたが、異例の出世を続けていたこの頃に亡くし、実頼の弟で右大臣・藤原師輔(もろすけ)の三女を新たな妻に迎えました。さらに、この妻も没すると、師輔の五女・愛宮(あいみや/あいのみや)をめとって、師輔との友好関係を維持しました。

実は師輔の長女・安子(あんし/やすこ)は村上天皇の中宮として、のちの冷泉(れいぜい)天皇、円融(えんゆう)天皇らを産んでおり、師輔も有力政治家として朝廷で確固たる地位を築いていたのです。師輔と安子は、高明にとってこの上ない後ろ盾でした。

高明の前途は明るく、平安京の右京四条に壮麗な豪邸を建て、西宮左大臣(にしのみやさだいじん)と謳われるほど家は繁栄します。

支援者を失くし、外戚にもなり損ねて

ところが、天徳4年(960)師輔が死去し、康保元年(964)には安子も死去。高明は、自身の地位を盤石とすべく、娘を、次期皇太子の有力候補だった為平(ためひら)親王の后としました。しかし、村上天皇が崩御すると、皇太子には為平親王の弟・守平(もりひら)親王が立てられます。のちの円融天皇です。守平親王を推していたのは、摂関家の藤原氏。高明が外戚となることを阻止したい実頼 、師輔のふたりの息子、伊尹 (これただ)と兼家 (かねいえ) らの画策だといわれています。

一方で、村上天皇は長子である冷泉天皇の子孫による皇位継承を望んでいましたが、冷泉天皇にはまだ子はいませんでした。為平親王は高明の娘と結婚しているため、「先に男児が生まれる可能性がある」ということが、年少の守平親王が皇太子に選ばれた理由との説もあります。

不穏な空気の中、高明は左大臣に昇格しますが、この後継者争いが「安和の変(あんなのへん)」を引き起こすことになりました。

藤原氏が他氏排斥!「安和の変」で失脚する。次ページに続きます

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