なんと法皇を恋敵と勘違い? 「長徳の変」
さて、この頃、伊周は藤原為光(ためみつ)の娘・三の君と逢瀬を重ねていました。長徳2年(996)、花山法皇(かざんほうおう)がその屋敷を訪れていると知り、伊周は弟・隆家(たかいえ)と共に道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が、法皇の袖を射抜いてしまいました。
しかも、実際に法皇が通っていたのは三の君ではなく、四の君! 道長は隆家を出雲国に、伊周を太宰府へ左遷。こうして、関白家が排斥されたこの一連の出来事は、「長徳の変(ちょうとくのへん)」といわれます。
その1年後、詮子の病が回復しないことから、大赦(たいしゃ)が発せられ兄弟は都に戻ります。けれど、政治の中心に返り咲くことは、もはやありませんでした。
【妹・定子の死。一筋の希望も消えた晩年。次ページに続きます】