はじめに山内一豊とはどんな人物だったのか?
山内一豊(やまうち・かずとよ)といえば、司馬遼太郎の名著『功名が辻』を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか? 一豊自身よりも、妻の内助の功にまつわる逸話を記憶している方も少なくないかもしれません。
山内一豊とは、実際どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
目次
はじめに―山内一豊とはどんな人物だったのか?
山内一豊が生きた時代
山内一豊の足跡と主な出来事
まとめ
山内一豊の生きた時代
山内一豊は、天文14年(1545)に誕生しました。彼が生まれる2年前には種子島に鉄砲が伝来し、天文18年(1549)にはキリスト教が伝来するなど、世の中が大きく動いた時代です。
その後、織田信長が戦国動乱を終息させ、後を継いだ豊臣秀吉が天下統一を成し遂げ、そして徳川家康が江戸幕府を開きます。山内一豊は、その三英傑に仕えながら、中世から近世へ大きく変革する時代を生きました。
山内一豊の足跡と主な出来事
山内一豊は、天文14年(1545)に生まれ、慶長10年(1605)に没しました。その生涯を出来事とともに辿っていきましょう。
父・盛豊は織田信長勢に攻められ戦死…
山内一豊は、天文14年(1545)に尾張国羽栗郡黒田城(=現在の愛知県葉栗郡木曾川町)で誕生します。父は盛豊(もりとよ)、母は梶原氏(法秀院)で、兄に十郎、弟に康豊、姉に通、妹に米・合がいました。幼名は、辰之助、猪(伊)右衛門です。父・盛豊は、織田信安の家老として、黒田城を任されていました。
永禄2年(1559)、織田信安・信賢の居城である岩倉城は、織田信長に攻められ落城します。この時、父・盛豊も戦死しました(※諸説あり)。
この時、15歳だった一豊は母とともに、城を脱出。家臣の祖父・江勘左衛門に保護された後、尾張国苅安賀(かりやすか)城主・浅井政高、美濃国松倉城主・前野長康を頼るなど、流浪の生活を送りました。翌年には、美濃の牧村領主牧村政倫(まさとも)に、そして近江国勢多城主山岡景隆に仕え、200石が与えられます。
信長に仕えたのち、秀吉の配下に
その後、永禄末年から元亀年間(1570〜1573)には、信長に仕えることに。この頃、若宮友興の女(見性院)と出会い、結婚をしています。
天正元年(1573)の越前朝倉氏との戦いでは、秀吉の配下に属しました。この戦いで、敵将である三段崎勘右衛門を討ち取ったとき、顔を負傷したとか。この時の功により、近江国唐国(からくに)400石が与えられました。
この頃の一豊には、信長の馬揃えのために、「妻が蓄えたお金を出して名馬を買った」という有名な逸話が残されています。しかし、この逸話の真偽のほどは定かではないようです。
天正3年(1575)の長篠の戦い、天正6年(1578)には三木城攻め、有岡城攻め、鳥取城攻めにも参加しています。天正10年(1582)、備中高松城の戦いにも列しました。この頃、秀吉の馬廻衆として黄母衣衆(きぼろしゅう)にも選ばれています。黄母衣衆とは、信長が率いた黒母衣衆・赤母衣衆に倣って作られた部隊のこと。先陣を切って戦うこともある母衣衆(ほろしゅう)には、武勇に優れた武将しか選ばれないため、ほかの家臣団からも一目置かれるほど名誉ある部隊でした。
同年6月、「本能寺の変」を受け、秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いにも加わっています。さらに、天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いにも参加し、柴田勝家の軍を追撃しました。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い後は、5,000石が与えられ近江国長浜の領主となりました。さらに翌年、紀州征伐により、高浜城が居城に。1万9,800石に加増されるのです。天正13年(1585)8月には越中攻めに加わり、長浜城主2万石となりました。また、豊臣秀次付の老臣となっています。
躍進を続ける一方で、悲しい出来事もありました。同年11月29日、大地震が起き、長浜城は被害を受け、一人娘の与祢姫が命を落としてしまうのです。その後、子供を喪った夫妻は、男児の捨て子を拾い養育します。
天正18年(1590)小田原征伐にも従軍しました。5万石を領し、掛川を居城とするようになります。文禄3年(1594)には、伏見城築城にも尽力。一豊は、秀吉の配下として多くの戦いに従い、そして期待に応えていったのです。
豊臣秀頼誕生後、秀吉と秀次の関係は悪化し、ついに秀次は切腹に追い込まれます。秀次の妻や子供らは死に追いやられましたが、老臣である一豊は連座を免れました。
【秀吉の死後、家康に近づく。次ページに続きます】