はじめに-徳川家康の「関ヶ原の戦い」とはどんな戦いだったのか
「関ヶ原の戦い」とは、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とした西軍による戦いのことです。のちに家康が征夷大将軍となったため、「天下分け目の戦い」とも言われています。慶長5年(1600)9月に合戦は繰り広げられました。
「小早川秀秋が裏切った」とか「徳川家康が勝利した」など、日本人なら誰でも知っている戦いの一つですが、何に端を発し、どのように戦いは進んでいったのでしょうか……?
本記事では、「関ヶ原の戦い」について、特に徳川家康の動きにも着目しながら解説していきます。
目次
はじめに-「関ヶ原の戦い」とはどんな戦いだったのか
「関ヶ原の戦い」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
「関ヶ原の戦い」、その後
まとめ
「関ヶ原の戦い」はなぜ起こったのか
慶長3年(1598)、当時の最高権力者であった豊臣秀吉が死去。秀吉の遺言により、豊臣秀頼を五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)が後見し、五奉行(石田三成、長束正家、増田長盛、浅野長政、前田玄以)が合議によって天下の政治を執り行なうことになっていました。慶長3年(1598)の間は、秀吉の遺言は表面上ではありますが守られていたのです。
しかし、翌慶長4年(1599)になると、五大老・五奉行内部の対立が表面化してきます。また、家康に唯一対抗できるとも言える前田利家が3月に亡くなったことをきっかけとして、細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、浅野幸長の7人の大名が石田三成を襲撃するのです。この時、三成はかろうじて難を逃れ、家康の軍勢に守られながら、居城である佐和山城に戻りました。どちらも豊臣恩顧の大名ではありましたが、背景として文治派と武断派の対立があったのです。
なぜこの時、家康は三成を守ったのでしょうか? 諸説ありますが、後日、三成に挙兵させることで天下を奪う算段をしていたのではないかと評されているようです。こうした点が、家康が「たぬき」と呼ばれる由縁かもしれません。
こうした中、家康は秀吉が築いた伏見城本丸に入ります。この行動は当時、「天下殿になられ候」と評されたほど、意味のある行動でした。さらに、その年の8月、家康以外の4大老が前後して国に帰ります。家康だけが中央に残り、実質、五大老の権限を独占したのです。
会津に帰国した五大老の一人、上杉景勝。彼は、城の修築や道路補修などの領内整備をしていました。こうした行動に対して、家康は「謀反の企みあり」と言いがかりをつけます。
慶長5年(1600)6月、家康は景勝に上洛を迫ります。しかし、景勝は拒絶。家康は、「景勝は上洛に応じず、軍備を整えている」ということを口実に上杉征伐のため、大坂城を出て東下するのです。
かねてより、挙兵の機会をうかがっていた三成は、この機をとらえます。7月17日、五大老の一人である、毛利輝元を総大将として挙兵したのです。
関わった人物
関ヶ原の戦いにおける主要な人物について紹介します。
【東軍】
徳川家康
秀吉生前から、諸大名を凌ぐ力を持っていた。秀吉の死後、独走体制が強まる。
井伊直政
遠江出身でありながら、家康に忠義を尽くし、徳川家臣団の中でスピード出世を果たす。関ヶ原の戦いでは、先陣の功を挙げるも、右肩を鉄砲で撃ち抜かれ重傷を負う。
本多忠勝
関ヶ原の戦いでは軍監を務め、東軍諸将のまとめ役を担う。
徳川秀忠
家康の嫡男。徳川の主力部隊3万8千を与えられるも、信州上田の真田に苦しめられ、関ヶ原に決戦には間に合わず……。
【西軍】
石田三成
故・秀吉のもと、実務官僚として政務を任されていた。秀吉の死後、家康の専横ぶりに反感を覚える。
毛利輝元
西軍総大将。関ヶ原の戦い時は、大坂城に入る。現地には養子の秀元と吉川広家を送るが、広家が家康と内通していたため、毛利軍は戦に参加しないまま終わった。
大谷吉継
三成とは昵懇の間柄。関ヶ原の戦い前、「家康と戦うべきではない」と三成を説得するが、三成の決意を変えることはできず、遂に自身も敗戦の覚悟をして三成と行動をともにする。
小早川秀秋
秀吉の養子だったが、秀頼誕生後、小早川隆景の養子となる。その後、秀吉からは冷遇された。関ヶ原の戦い時は、18歳だった。
【この戦いの内容と結果。次ページに続きます】