秀吉の死後、家康に近づく
秀吉の死後は、徳川家康に接近します。慶長5年(1600)、家康の会津征伐に参加。関ヶ原の戦い直前に開かれた軍議・小山評定では、「掛川城を明け渡し、城内の兵糧を献上する」と発言して、家康を喜ばせました。このほか、甥の政豊を小田原城へ人質に出し、妻の助言により、大坂方の人質政策などが書かれた密書を提供したとも言われています。
土佐一国を与えられ、土佐藩祖に
関ヶ原の戦い後は戦功により、20万2,600石の土佐高知藩主となりました。その際、家康は井伊直政に長宗我部氏の浦戸城を受け取らせてから、一豊に与えるよう命じます。納得のいかない長宗我部遺臣は一揆を起こしますが、鎮圧。一豊は、長宗我部氏の置目(法令)を踏襲することを布告してから、浦戸城へと入りました。その後、要地に親族や重臣を配して、体制を固めています。
浦戸城入城後、馬の馭初式(のりぞめしき)を行ないました。これは一豊にとって、長浜時代からの恒例行事だったのです。桂浜では、相撲も興行。この時、観客の中に浦戸一揆関係者たちがいたことから、捕まえ磔刑に処したと言います。
慶長8年(1603)8月、河中山(こうちやま)城(のちの高知城)を居城とします。ここは長宗我部氏が居城した場所であったため、一豊は工事の視察をする際も、長宗我部遺臣に襲撃されることを警戒していたとか。一豊と同じ服装をした5人の家臣で周囲を固めて、6人衆として視察したりしていたのです。
高知城入城後は、本山一揆に悩まされながらも鎮圧しました。それ以降、国内は安定したので、領国経営に邁進しています。
こうして一豊は近世土佐藩の礎を築き、慶長10年(1605)、9月20日に61歳で亡くなりました。
まとめ
山内一豊が亡くなった後、妻である見性院は出家し、京都で余生を過ごしたそうです。そして、元和3年(1617)12月4日、一豊と同じ61歳でこの世を去りました。
見性院が名馬を買った逸話は、新井白石の『藩翰譜』や、室鳩巣の『鳩巣小説』、湯浅常山の『常山紀談』などで書かれ、江戸時代中期には有名な話となっていたようです。しかし、安土桃山時代の資料にはないため、真相は定かではないそう……。
しかし、そうした逸話が広がるほど、一豊を支えた内助の功は大きかったと言えるのかもしれません。
文/京都メディアライン
HP: https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
高知県立高知城歴史博物館
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『世界大百科事典』(平凡社)