はじめに-浅井長政とはどんな人物だったのか?

浅井(あざい)長政は、北近江(現在の滋賀県)の戦国大名です。15歳にして家督を継いだあと、互いの利害の一致から、信長と同盟を結ぶことに。その際、信長の妹・お市と結婚し、茶々・初・江の三姉妹の父となりました。

信長と同盟を結び、妻のお市と娘たちとともに、幸せに暮らしていたとされる長政。しかし、信長が約束を破ったことをきっかけに、彼に反旗を翻すことに。悲劇的な最期を迎えた戦国武将として知られています。

覇道を突き進む信長と対立し、決別した長政には、信長とは対照的で慎重な人物というイメージを抱いてしまいますが、実際の浅井長政はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、愚直なまでに信義を通す、誠実さの持ち主(演:大貫勇輔)として描かれます。

目次
はじめに-浅井長政とはどんな人物だったのか?
浅井長政が生きた時代
浅井長政の足跡と主な出来事
まとめ

浅井長政が生きた時代

浅井長政は、天文14年(1545)に生まれます。北近江の守護である京極氏に仕えていた長政の祖父・浅井亮政(すけまさ)は、京極氏の後継者争いに乗じて一揆を起こし、北近江の地を支配するようになりました。しかし、長政の父・浅井久政(ひさまさ)が南近江の守護である六角氏に敗れたことで、支配下に置かれることに。

長政は、六角氏に圧力をかけられながら、幼少期を過ごさなければなりませんでした。しかし、成長した長政は、無理な結婚を強いた六角氏に対して反旗を翻します。このことがきっかけとなって、長政を取り巻く環境は、大きく変化していくこととなったのです。

浅井長政像(高野山持明院蔵)

浅井長政の足跡と主な出来事

浅井長政は、天文14年(1545)に生まれ、天正元年(1573)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

浅井久政の子として生まれる

長政は、北近江の浅井久政の子として生まれます。父の久政が南近江の守護・六角義賢(よしかた)に敗戦したことで、長政が生まれた頃には浅井氏は六角氏に従属するようになっていました。そうした中、15歳にして家督を相続した長政は、義賢から「賢」の字をもらい、浅井賢政(かたまさ)という名前を無理に名乗らされます。

さらに、六角氏は長政に対して、自分の家臣の娘と結婚することを強制しました。幼少の頃から続く六角氏の圧力に対し、ついに長政は我慢の限界を迎えてしまうのです。

六角氏に反旗を翻す

長政は、永禄2年(1559)の「肥田(ひだ)城の水攻め」、翌年の「野良田(のらだ)の戦い」にて、六角氏を相手に果敢に戦います。野良田の戦いに関しては、六角氏の方が圧倒的に有利であると考えられていましたが、長政の巧みな戦術によって、打ち勝つことができました。

この時、長政の噂を聞きつけて興味を持った人物が、織田信長だったのです。

信長と同盟を結ぶ

長政が六角氏との戦いで武名をあげていた頃、信長は美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏の存在に苦しめられていました。そこで、近江国の権力者となった長政と同盟を結ぶことで美濃国を挟み撃ちにし、斎藤氏を攻略できると信長は考えたのです。

永禄10年(1567)、信長は長政に接近し、同盟を結んだ暁には自分の妹のお市を嫁がせると、長政に提案します。尾張の権力者である信長と同盟を結ぶことは、長政にとって悪い話ではありませんでした。しかし、かねてから恩義のある朝倉家と織田家は不仲であったため、長政はどうすべきか悩んでしまいます。

結局、朝倉家を攻撃しないことを条件に、信長との同盟を受け入れることにしたのです。

金ヶ崎の戦い勃発、信長を裏切る。次ページに続きます

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