はじめに-本多忠真とはどんな人物だったのか
本多忠真(ただざね)は、戦国時代に活躍した武将で、徳川家臣団の中でも最強の武将として名高い本多忠勝(ただかつ)の叔父です。本多家は代々、家康の家系である松平家に仕えていたため、忠真も主君の家康に忠誠を誓いました。
遺児である忠勝を親代わりとして大切に育て、命をかけて守り抜いたとされる本多忠真。非常に情に厚く、忠誠心の強いイメージがありますが、実際の本多忠真はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、甥の本多忠勝を最強武士に育て上げた、酒好きの武将(演:波岡一喜)として描かれます。
目次
はじめに-本多忠真とはどんな人物だったのか
本多忠真が生きた時代
本多忠真の足跡と主な出来事
まとめ
本多忠真が生きた時代
本多忠真は、将軍の補佐役である管領(かんれい)の座を巡り、細川氏の家督争いが激化したとされる享禄4年(1531 ※生年については諸説あり)に生まれます。本多家は代々松平家の家臣として仕えていたため、忠真もおのずと家康に仕えるようになりました。
今川氏との「安城(あんじょう)合戦」にて討死した兄・本多忠高(ただたか)の息子であり、自身の甥でもある本田忠勝に武芸を徹底的に叩き込み、天下無双と言われるほどの武将に育て上げました。忠真は、実の息子のような存在である忠勝と、主君である家康のことを、生涯を通して守り抜いたのです。
本多忠真の足跡と主な出来事
本多忠真は、享禄4年(1531)に生まれ、元亀3年(1572)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
松平家の家臣・本多忠豊の子として生まれる
忠真は、松平家の家臣として仕えた本多忠豊(ただとよ)の次男として、三河国(現在の愛知県)に生まれます。天文14年(1545)、父である忠豊は、安祥(あんじょう)城を巡る織田信秀との戦いで、家康の父である松平広忠(ひろただ)を守るため、殿(しんがり)を務めて討死したとされています。
家臣として最期まで忠義を尽くした父の生き様が、家康に対する忠真の忠誠心にもつながっていると言えるでしょう。
甥・本多忠勝の後見役に徹する
父の忠豊が討死した4年後の天文18年(1549)、兄の本多忠高も今川氏との「安城合戦」にて討死してしまいます。まだ幼い息子・本多忠勝を遺して命を落とした兄に代わり、忠勝を育てることを決意。忠真は、忠勝を立派な武将にするべく、一生懸命に武芸を教え込みました。また、武芸のみならず、読み書きの勉強や武士の心得なども徹底的に叩き込んだという逸話が残されています。幼くして父を亡くした忠勝にとって、威厳あふれる忠真は本当の父のように尊敬できる存在で、強く影響を受けていたのではないかと想像できます。
さらに、忠真は槍の名手としても名高く、永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」の前哨戦と言われる「大高(おおだか)城兵糧入れ」では、わずか12歳にして初陣を飾ったとされる忠勝を支えました。忠勝を討ち取ろうとした敵に槍を投げて守り抜いたという逸話も残されています。
【三方ヶ原の戦いと壮絶な最期。次ページに続きます】