徳川家の人質となる
信長の死後、後継者を決めるべく開かれた「清洲会議」にて、秀吉はまだ幼い信長の孫・三法師を強引に擁立しました。秀吉は信長の敵討ちに成功しているということもあり、誰も逆らうことができなかったと言われています。
天正12年(1584)、強大化した秀吉の勢力を警戒した信長の次男・信雄により、「小牧・長久手の戦い」が勃発します。信雄は家康と手を組んで秀吉と戦いましたが、戦いは膠着状態になり、秀吉が和解を提案したことで終戦しました。
その後、秀吉は家康との関係を強化させるため、自身の妹・旭姫を家康の正室として嫁がせることに。さらに、家康を懐柔するため、大政所を家康のもとに人質として送り込んだのです。これには家康も逆らうことはできず、秀吉のいる聚楽第(じゅらくだい)へと赴き、彼に臣従したと言われています。
身内を人質として送り込むことには、大きなリスクが伴います。家同士で争いが勃発した際、人質は真っ先に命の危険にさらされてしまうのです。自身の母親を人質とした秀吉は、薄情な人物だと言われることもあります。しかし、頂点に上りつめるためには、相応の覚悟が必要だったのかもしれません。
息子を見守り続けた人生の終焉
短い人質生活を終えて、大政所は大坂に戻り、聚楽第で晩年を過ごしました。しかし、長旅が体に障ったのか、病気がちになってしまったのです。娘の旭姫が心配して駆け付け、看病にあたりましたが、その甲斐むなしく文禄元年(1592)、大政所は静かに息を引き取りました。
まとめ
息子が武士として大出世を果たしたことで、人生が一変してしまった大政所。秀吉の側で、その活躍を見守り続けました。苦楽のあった生涯でしたが、出世して母に楽をさせたいという秀吉の思いを、よく理解していたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)