はじめに-穴山梅雪とはどんな人物だったのか

穴山梅雪(あなやま・ばいせつ)、別名穴山信君(のぶただ)は武田一門でありながら、主君である武田勝頼(たけだ・かつより)から離反し、家康に降った武将として有名です。また、本能寺の変が起きた際、帰国の途中で一揆によって殺されたというエピソードは広く知られています。

そんな梅雪ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、信玄から深く信頼され、外交戦略のエキスパートとして活躍。武田軍の駿河進撃時には、先兵として今川氏の切り崩しに従事する人物(演:田辺誠一)として、描かれます。

目次
はじめに-穴山梅雪とはどんな人物だったのか
穴山梅雪が生きた時代
穴山梅雪の足跡と主な出来事
まとめ

穴山梅雪が生きた時代

梅雪が活躍した時代は離反が頻繁にあり、信義というものが存在しませんでした。それは、一族の者であっても例外ではなかったのです。武田一門であった梅雪も、最後は同じ武田家の主君・勝頼から離れてしまいます。

穴山梅雪肖像(霊泉寺所蔵)

穴山梅雪の足跡と主な出来事

梅雪は天文10年(1541)に生まれ、天正10年(1582)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

武田氏の家臣としての活躍

梅雪は、伊豆守・穴山信友(のぶとも)と信玄の姉・南松院(なんしょういん)の間の子として、天文10年(1541)に生まれます。

穴山氏は武田氏の一族でした。南北朝時代に、甲斐守護だった武田信武(のぶたけ)の子・義武(よしたけ)が、巨摩(こま)郡の穴山に拠って穴山を称したのに始まるとされています。

父・信友の遺業を受けて甲斐の下山(しもやま)に居館し、河内(かわち)領(山梨県富士川流域)を支配。信玄・勝頼に仕え、その領国経営に関与しました。

居地が甲斐と駿河を結ぶ交通の要地にあり、かつ今川氏とも姻戚関係にあったため(義元の妻と梅雪の母は姉妹関係)、対駿河政策に貢献しています。天正3年(1575)には、駿河の江尻(えじり)城主となって庵原(いはら)郡一帯を支配するようになりました。さまざまな貢献から、武田二十四将に列すことにも。

さらに、天正8年(1580)には出家し、「梅雪斎不白(ばいせつさいふはく)」と号します。

家康への臣従から一揆で殺されるまで。次ページに続きます

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