はじめに-三法師とはどんな人物だったのか?

三法師(さんぼうし)とは、信長の長男・織田信忠(のぶただ)の息子で、のちの織田秀信(ひでのぶ)です。三法師とは秀信の幼名で、信忠の居城だった岐阜城(現在の岐阜県岐阜市にあった山城)にて生まれます。幼くして、「本能寺の変」で父・信忠と、祖父にあたる信長を亡くした三法師。その後は織田家の継嗣として、秀吉に擁立されました。

時代が信長から秀吉へと移り変わっていく中で、三法師も秀吉に従属することになります。激動の時代を生き抜いた三法師。秀吉に振り回されたと言われることもありますが、実際の三法師はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

目次
はじめに―三法師とはどんな人物だったのか?
三法師が生きた時代
三法師の足跡と主な出来事
まとめ

三法師が生きた時代

三法師は、天正8年(1580)に生まれました。信忠の嫡子として生まれた三法師は、父の居城である岐阜城で生活していました。しかし、天正10年(1582)の「本能寺の変」発生を受け、急遽清洲城に避難することに。

その後開かれた「清洲会議」にて、信長の継嗣に任命された三法師は、わずか3歳という幼さで、時代の波に飲まれることとなったのです。

織田秀信像(聖衆来迎寺蔵)

三法師の足跡と主な出来事

三法師は、天正8年(1580)に生まれ、慶長10年(1605)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

「本能寺の変」発生、秀吉に擁される

三法師は、天正8年(1580)に岐阜城で生まれました。信長の長男・織田信忠の長男として生まれた三法師の運命は、天正10年(1582)に発生した「本能寺の変」により、大きく変わっていきます。明智光秀の軍勢に攻撃され、信長と信忠は自害へと追い込まれることに。そして、岐阜城にいた三法師も、清洲城への避難を余儀なくされたのです。

「本能寺の変」発生後、信長の後継者を決定するべく、清洲城にて会議が開かれました。「清洲会議」と呼ばれるこの会議で、秀吉は信長の孫である三法師を後継者として推薦します。しかし、三法師はわずか3歳と幼かったため、家臣団から反対されることに。

秀吉は、信長の三男・信孝(のぶたか)を後継者に推薦する柴田勝家と対立しながらも、強引に三法師を擁立しました。これにより、秀吉は実質的な信長の後継者となり、三法師は秀吉に従属する形で生きていくことになったのです。

清洲会議で三法師を擁する羽柴秀吉(『絵本太閤記』より)

「関ケ原の戦い」で敗北。次ページに続きます

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