はじめに-なかとはどんな人物だったのか?
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』に登場する、なか(のちの大政所、演:坂井真紀)は、秀吉(演:池松壮亮)や秀長(演:仲野太賀)の生母です。本名は「なか」で、秀吉が関白に就任したことを機に、大政所と称されるようになりました。
尾張国(現在の愛知県)の百姓で、ごく普通の生活を送っていたとされるなか。息子の秀吉が武士になることを志し、天下人としての頭角を現したことで、なか自身の人生も大きく変わっていきました。
「秀吉のおかげで豊かな生活を送ることができた人物」とも、「秀吉に振り回された人物」とも評されることがある、なか。実際のなかは、どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
『豊臣兄弟!』では、極貧生活をものともしない大らかな母親として描かれます。

なかが生きた時代
なかが生まれたのは、戦国乱世の真っ只中、永正10年(1513年)のこと。織田信秀(信長の父)が尾張で勢力を広げつつある時代であり、日本中に小国が割拠し、各地で争いが絶えませんでした。
やがて織田信長が台頭し、下剋上の象徴として豊臣秀吉が現れます。なかはこの時代に、息子二人、秀吉と秀長を武士として送り出し、その出世の過程を見守ることとなります。
なかの足跡と主な出来事
なかは、永正10年(1513)に生まれ、文禄元年(1592)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
尾張の百姓の娘として生まれる
なかは永正10年(1513)、尾張御器所(ごきそ)村(現在の名古屋市昭和区)に生まれました。百姓の木下弥右衛門に嫁ぎ、長女のとも(のちの日秀尼)、長男の秀吉、次男の秀長を出産(※父親については諸説あり)。弥右衛門の死後は筑阿弥(ちくあみ)と再婚し、娘の旭姫をもうけます。
ごく普通の農民として慎ましく暮らしていた、なか。しかし、長男・秀吉が家を飛び出し、武士を志したことが、なかの運命を大きく動かしていきます。

息子たちの出世とともに暮らす
秀吉は織田信長に仕官し、頭角を現します。天正元年(1573)には浅井氏を滅ぼし、その旧領に長浜城を築城。ここに母・なかや妹・旭姫らを呼び寄せ、一家で生活を始めました。

弟の秀長も兄の補佐役として活躍し、秀吉とともに各地を転戦。家族全体が一丸となって、秀吉の政権基盤を築いていったのです。
徳川家の人質に|政治の最前線に立った母
天正12年(1584)、秀吉と徳川家康の対立が激化すると、和睦の一環として秀吉は、妹・旭姫を家康の正室として嫁がせ、さらに母・なかを人質として送り込みます。
人質とはいえ、なかの滞在は短期間でした。しかし、身内を人質として送り込むことには、大きなリスクが伴います。争いが勃発すれば、人質は真っ先に命の危険にさらされてしまうからです。
母親を人質に出すという決断は、秀吉にとっても重いものであり、なか自身も「天下人の母」としての責任を受け入れたのではないでしょうか。
晩年と死
天正13年(1585)、秀吉が関白になったのを機に大政所となったなかは、晩年を秀吉の築いた大坂城や聚楽第で過ごしました。しかし、人質となり長旅をした影響か体調を崩してしまいます。娘の旭姫が心配して駆けつけ、看病にあたったといいますが、その甲斐むなしく文禄元年(1592)、大政所は静かに息を引き取りました。享年80歳でした。
なかの死は、秀吉にとって大きな痛手であったと伝えられています。
まとめ
なかの人生は、秀吉や秀長の影に隠れがちですが、戦国の世にあって二人の優れた武将を育て、支えた存在として、歴史の中に確かな足跡を残しています。自身は政治の表舞台に立つことなくとも、徳川との人質交渉を受け入れた覚悟や、息子たちに寄せた信頼の深さは計り知れません。
戦国時代の中で翻弄されながらも、家族を支え続けた「天下人の母」なかの人生は、今も多くの人の心を打ちます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)











