はじめに-大政所とはどんな人物だったのか?

大政所(おおまんどころ)は、秀吉の生母です。本名は仲(なか)で、秀吉が関白に就任したことを機に、大政所と称されるようになりました。尾張国(現在の愛知県)の百姓家で、ごく普通の生活を送っていたとされる大政所。息子の秀吉が武士になることを志し、天下人としての頭角を現したことで、大政所自身の人生も大きく変わっていきました。

「秀吉のおかげで豊かな生活を送ることができた人物」とも、「秀吉に振り回された人物」とも評されることがある大政所。実際の大政所は、どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、人質として徳川家に送られるなど、息子の野望に振り回された人物(演:高畑淳子)として描かれます。

目次
はじめに―大政所とはどんな人物だったのか?
大政所が生きた時代
大政所の足跡と主な出来事
まとめ

大政所が生きた時代

大政所は、永正10年(1513)に生まれます。織田家の足軽を務めていたとされる木下弥右衛門(やえもん)のもとに嫁ぎ、秀吉と秀長を出産しました。百姓としての生涯を全うするはずだった大政所ですが、息子の秀吉が武士になるため、家を飛び出して行くことから人生が変わり始めます。

信長に仕えるようになり、彼のもとで順調に出世していった秀吉。秀吉と同じく、大政所もまた、武家社会で生きることとなったのです。

『天瑞寺殿春岩肖像』(京都大徳寺蔵)

大政所の足跡と主な出来事

大政所は、永正10年(1513)に生まれ、文禄元年(1592)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

秀吉を出産する

大政所は、永正10年(1513)、尾張国愛知郡に生まれたと言われています。その後、同郷の木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、秀吉と秀長を出産しました。弥右衛門の死後、織田家の同朋衆(どうぼうしゅう、主君の近くで雑務や芸能に従事した人々のこと)である筑阿弥(ちくあみ)と再婚し、旭姫を出産します。

貧しいながらも懸命に生きていたとされる、大政所。この頃はまだ、自分の息子が天下人になるなど、夢にも思っていなかったのではないでしょうか?

秀吉と同居する

成長した秀吉は、武士になることを志し、生家を飛び出しました。そして、兄の後を追うように、弟の秀長も武士として生きるようになったのです。秀吉と秀長の兄弟は頭の回転が速く、相手の懐に入るのが非常に上手かったとされています。

そのため、秀吉は主君である信長に気に入られ、大出世を果たします。秀吉のサポート役に徹していた秀長も、めきめきと力をつけていきました。天正元年(1573)、「一乗谷城の戦い」で浅井・朝倉氏が滅亡すると、秀吉はその戦功を称えられ、浅井氏の旧領の大部分を与えられることに。

秀吉はそこに長浜城(現在の滋賀県長浜市にあった城)を築城し、大政所や旭姫ら家族を呼び寄せたそうです。天正10年(1582)の「本能寺の変」勃発後、大坂城(=現在の大阪府大阪市にある城)を築城するまで、長浜城に住み続けたと言われています。

長浜城模擬天守(長浜城歴史博物館)

徳川家の人質となる。次ページに続きます

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