はじめに-徳川秀忠とはどんな人物だったのか

徳川秀忠(ひでただ)は、家康の三男で、江戸幕府第2代将軍です。関ヶ原の戦いでは上田城攻略に手間取り、遅参したことで、家康の怒りを買ったことで知られていますが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、家康と於愛の方の子として大切に育てられ、大らかな青年に成長する息子(演:森崎ウィン)として描かれます。

目次
はじめに-徳川秀忠とはどんな人物だったのか
徳川秀忠が生きた時代
徳川秀忠の足跡と主な出来事
まとめ

徳川秀忠が生きた時代

徳川秀忠像(松平西福寺蔵)

徳川秀忠が生まれた天正7年(1579)は、織田信長が安土城の天守を完成させ、天下統一に向けて邁進していた時でした。同じ年には、「信康・築山殿事件」が起こり、家康の正室である築山殿(つきやまどの)と嫡男の信康(のぶやす)が死に追いやられています。

たとえ家族であっても、非情な決断が下される時代であったといえるでしょう。そうした時代において、秀忠は家康の第3子として誕生しました。

徳川秀忠の足跡と主な出来事

徳川秀忠は、天正7年(1579)に生まれ、寛永9年(1632)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

家康と於愛の方の子として誕生

徳川秀忠は、徳川家康と於愛の方の子として、天正7年(1579)4月7日遠江 (とおとうみ=現在の静岡県)浜松城に誕生しました。松平信康、結城秀康に次ぐ三男に当たります。三男ではありますが、信康は自害、秀康は羽柴(豊臣)秀吉の養子となったので、徳川の跡継ぎの地位を得ることに。幼名は長松でしたが、のちに竹千代に改めました。

秀吉より偏諱(へんき)を賜う

天正18年(1590)、聚楽第で元服をします。この時、秀吉におめみえし、「秀」の字を与えられて「秀忠」と名乗るようになりました。秀吉は織田信雄(のぶかつ)の娘を養女として、秀忠と結婚させます。

この頃、秀忠は主に江戸城にいて、政務に忙しい家康に代わり、留守居役を務めていたといわれています。

お市の三女・江与と結婚

文禄3年(1594)、またも秀吉の意向により、浅井長政とお市の三女であり、淀殿の妹である江与(於江、法号・崇源院)と結婚することに。慶長2年(1597)、2人の間には、長女・千姫が誕生します。翌年には、秀吉の子である秀頼と千姫の婚約が成立します。

『崇源院像』(京都養源院所蔵)

関ヶ原の戦いで上田城攻略に手間取り、遅れを取る…。次ページに続きます

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