はじめに-岡部元信とはどんな人物だったのか

岡部元信(おかべ・もとのぶ)は、当初今川氏に仕え、最後は武田氏の家臣として、高天神城(たかてんじんじょう)にて徳川家康と戦って討ち死にした人物として有名です。

そんな元信ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、今川家の没落後に武田家の家臣となり、武田信玄の没後は武田勝頼に仕え、高天神城を守ります。その後、徳川家康の攻撃を受けると、兵を率いて徳川軍への突撃を敢行する人物(演:田中美央)として、描かれます。

目次
はじめに-岡部元信とはどんな人物だったのか
岡部元信が生きた時代
岡部元信の足跡と主な出来事
まとめ

岡部元信が生きた時代

戦国時代では、主君が戦死などによっていなくなることは少なくありませんでした。そうなった場合には、新たに仕える主君を見つける必要がありました。また、主君が信用できなくなってくると、見限って別の主君に仕えることもあったのです。そのため、複数の主君に仕えるということは珍しくなかったと言えるでしょう。

岡部元信の足跡と主な出来事

岡部元信の生年については不明ですが、没年は天正9年(1581)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

今川家の家臣として活躍

元信は当初、今川義元に仕えていました。そして、今川家の家臣として、大きな活躍を見せています。

今川義元像(『太平記英勇伝 稲川治部太夫源義基』歌川国芳筆)

天文17年(1548)に、今川と織田が戦った三河の小豆坂合戦では、今川軍が織田軍に反撃され、苦労していたところに元信が引き返して織田軍を突き崩して勝ったことを、義元が賞賛。この功績として、元信が戦いの時に馬に着せた「筋馬鎧」及び「猪立物」の軍装について、領国内の武士が用いることを禁止するほどでした。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、鳴海城(愛知県名古屋市)を防衛。この戦いでも元信は奮闘しますが、最終的に義元は織田信長に討ち取られてしまいます。元信は、討ち死にした義元の首と引き換えに開城、駿府に戻りました。敗れたとはいえ、元信の行動は勇敢で忠義あるものであり、高く評価されたことがうかがえます。

なお、元信は駿府への帰り道に刈谷城を攻撃し、そこの城主であった水野信近(みずの・のぶちか)以下の城兵たちを多数討ち取るという戦果を残しています。

武田家に仕える

今川家にさまざまな戦いで貢献するも、桶狭間での敗戦の影響は大きく、今川氏は弱体化していきました。

その後、永禄11年(1568)に武田信玄が今川領である駿河への侵攻を開始。この時、元信は兄・正綱(まさつな)とともに、応戦するもやがて信玄の軍門に下ることに。戦国大名としての今川氏は滅んでしまいます。

武田信玄像(高野山持明院蔵)

武田の家臣になった元信は、その後各地を転戦。天正2年(1574)の高天神城攻略では、開城の使者として派遣されています。この戦いで、徳川家康が支配していた高天神城は陥落。武田のものとなりました。

今の高天神城址。要衝として、激しい争奪戦が展開されました

天正7年(1579)には、高天神城の城代に就任。高天神城は、「高天神を制すものは遠州を制す」と言われるほどの交通の要衝。その城代を任されたのですから、元信は重要な立ち位置にいたことがうかがえます。

高天神城で散る。次ページに続きます

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