関ヶ原の戦いで上田城攻略に手間取り、遅れを取る…

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、別動隊として東山道を西上します。この時、徳川の主力部隊である3万8000の兵が与えられ、本多正信や榊原康政など重臣で脇も固められていました。

しかし、途中で信州上田城の真田昌幸に苦しめられ、結果、決戦に間に合うことができませんでした。家康はこのことに激怒し、秀忠とはしばらくの間、対面しなかったとか。諸将がとりなし、ようやく赦されたと言われています。

現在の上田城

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍となり、秀忠は正二位内大臣となります。同じ年に、娘の千姫(7歳)が、秀頼のもとに嫁入りをしました。

江戸幕府第2代将軍となる

慶長10年(1605)4月7日に、秀忠は征夷大将軍となり、2代将軍を継ぐことになります。しかし、実権は駿府城(すんぷじょう=現在の静岡県静岡市)に移り住んだ大御所・家康の元にありました。大御所・家康との二元政治のもと、秀忠は主に東国を中心とした大名の統率をしました。

現在の駿府城

大坂冬・夏の陣には家康とともに参加しています。夏の陣では、娘の千姫が大坂城落城直前に家康の命で助け出されました。

元和2年(1616)、家康が死去すると、名実ともに主権者となります。大名領知宛行状(あてがいじょう、領地と石高を確定した文書)を発したり、大名(一門、譜代を含む)の改易を行なったり、諸大名の御手伝普請 (おてつだいぶしん) による江戸城・大坂城の強化をするなど持ち前の政治手腕を発揮しました。また、五女・和子(のちの東福門院)を後水尾天皇に入内させるなど、朝廷への対策も怠りませんでした。このほかにも、キリシタン禁令の強化と南蛮貿易に奉書船制度を創設するなど外交政策にも力を注いでいます。

家康の大きな影に隠れがちではありますが、秀忠もまた、江戸幕府を強固にした一人だと言えるでしょう。

将軍職を家光に譲る

元和9年(1623)7月には、将軍職を家光に譲ります。これを機に翌年には江戸城西丸 (にしのまる)に移りましたが、実権は大御所・秀忠が堅持していました。寛永3年(1626)には、従一位太政大臣 (じゅいちいだいじょうだいじん)となります。

その後、寛永9年(1632)1月24日に江戸城西丸で死去します(享年54歳)。江戸増上寺 (ぞうじょうじ) に葬られました。

まとめ

秀忠は、花の中でも特に椿を愛していたと言われています。また、若い頃から茶道の愛好家であり、鉄砲の名手でもあったとか。近年発掘された墓には、生前愛用していた一梃の鉄砲が納められていたと言います。そうした逸話を聞くと、秀忠の繊細で律儀な人となりが伝わってくるようです。

秀忠の残した言葉として「人を用うるに、過失を以てこれを棄つることなかれ。よろしくその自新を許すべし」というものもあります。これは自身の経験を反映しているものなのかもしれません。

家康と家光に挟まれ、どちらかといえば陰の薄い存在だと捉えられる秀忠。しかし、外交・政治において力を発揮したことをそれぞれの出来事が証明しています。そうした手腕は、今以上に評価されるべきではないでしょうか。

文/京都メディアライン
HP:https://kyotomedialine.com FB

参考図書/
日本大百科全書(小学館)
世界大百科事典(平凡社)
日本人名大辞典(講談社)
国史大辞典(吉川弘文館)

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