はじめに-「信康・築山殿事件」とはどんな出来事だったのか

「信康・築山殿事件」とは、天正7年(1579)に、家康の正室・築山殿(つきやまどの)と、嫡男・信康(のぶやす)が死に追いやられた事件です。信康のもとに嫁いだ五徳姫が、父である信長に訴状を送り付けたことが発端となった事件。彼女がなぜそのような行動に出たのかについては、現在でもはっきりとわかっていません。

一説によると、娘からの訴状を受けた信長は、家康に対し、信康と築山殿の処分を命じたそうです。家康が、二人の死を深く悲しんだという逸話も残されており、事件の凄惨さが伝わってきます。この事件がどのようなものであったかについて、史実をベースにしながら解説します。

目次
はじめに―「信康・築山殿事件」とはどんな出来事だったのか
「信康・築山殿事件」はなぜ起こったのか
関わった人物
この事件の内容と結果
その後
まとめ

「信康・築山殿事件」はなぜ起こったのか

永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれたことをきっかけに、家康は今川氏からの独立を果たします。その後、三河国の安全を確保するため、敵対関係にあった信長と同盟を結ぶことに。そして、永禄10年(1567)、同盟が結ばれた証として、家康の息子・信康と、信長の娘・五徳姫は結婚することとなったのです。

元亀元年(1570)、家康は浜松(現在の静岡県)に拠点を移し、居城だった岡崎城を信康に譲ります。家康が浜松に移住したことで、岡崎城は信康と五徳姫、築山殿の3人の居城となったのです。

その後、五徳姫は二人の子を出産しますが、いずれも女児でした。そのため築山殿が、信康に対して側室を設けるように勧めたそうです。それに対して、男児を出産できなかった自分への当てつけだと感じた五徳姫は、父・信長に、二人に対する不満を綴った訴状を送り付けたと言われています。

これをきっかけとして、信康と築山殿は悲劇的な死を迎えることになったというものがこれまでの通説です。

岡崎城(愛知県岡崎市)

関わった人物

では、「信康・築山殿事件」に関わった主な人物について、紹介します。

徳川方

・松平信康

松平信康

岡崎城の城主を務めた、家康の嫡男。信長の娘・五徳姫を正室として迎えるが、武田氏と内通しているという嫌疑をかけられ、自害へと追い込まれる。

・築山殿

家康の正室であり、信康の生みの親。岡崎城にて、息子夫婦と同居するが、息子と同じく武田氏と内通しているという嫌疑をかけられ、処刑されることに。

・徳川家康

徳川家康

岡崎城主・松平広忠の子として生まれ、幼少期を織田氏・今川氏の人質として過ごす。信長の命で、嫡男・信康と築山殿を処分したとされる。

織田方

・織田信長

尾張国(現在の愛知県)出身の戦国大名。信康のもとに嫁いだ娘・五徳姫からの訴状を受け、家康に対し、信康と築山殿の処分を命じたとされる。

・五徳姫

家康の嫡男・信康のもとに嫁いだ、信長の娘。信康と築山殿に不満を募らせ、信康・築山殿事件発生のきっかけを作ったとされる。

酒井忠次と大久保忠世は信長を説得するため安土城を訪れる。次ページに続きます

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