はじめに-「本能寺の変」とはどんな出来事だったのか
「本能寺の変」とは、天正10年(1582)に明智光秀が、本能寺にて主君の織田信長を襲撃し、自害に追い込んだ事件のことです。信長は、事件の3か月前に武田氏を滅ぼし、天下統一へと駒を進めている最中でした。
誰もが一度は耳にしたことのある、有名なこの事件。なぜ光秀が信長に反旗を翻したのかについては諸説あり、現在でも議論はさかんです。周囲を震撼させた「本能寺の変」がどのような事件であったか、そして、その時家康はどうしていたかについて、史実をベースにしながら解説します。
目次
はじめに―「本能寺の変」とはどんな出来事だったのか
「本能寺の変」はなぜ起こったのか
関わった人物
この出来事の内容と結果
「本能寺の変」、その後 ―その時、家康は?
まとめ
「本能寺の変」はなぜ起こったのか
先述の通り、光秀がなぜ主君である信長を自害に追い込んだのかについては、諸説あります。現在でも様々な意見に分かれていますが、中でも光秀の遺恨説が有力です。光秀が信長を恨むようになったという逸話は、枚挙にいとまがありません。
代表的なものとして、武田氏攻略の際の逸話が挙げられます。武田氏を攻略した後、光秀は信州(現在の長野県)の諏訪にて、「我々の努力の甲斐あって、武田氏を攻略できた」といった内容の祝辞を述べました。これに信長が激怒し、公衆の面前で光秀を折檻したと言われています。
また、江戸時代初期に成立した『川角(かわすみ)太閤記』にも、二人に関する逸話が残されています。それは、信長が光秀を饗応役(きょうおうやく、来客を接待する役職)から解任したという内容です。
武田氏攻略の後、信長は安土城に家康を呼び、彼をもてなすために光秀を饗応役に任命しました。しかし、家康に提供するはずの魚が腐っていたことに腹を立てた信長が、光秀を饗応役から解任したそうです。光秀に代わって、別の家臣が饗応役を務め、光秀はまたしても大恥をかいてしまうことになりました。
これらの逸話の中には、完全な創作も混ざっているため、真偽は定かではありません。しかし、信長と会見したポルトガルの宣教師のルイス・フロイスの著書にも、信長が光秀に暴力をふるったという記述が見られます。これらのことから、光秀が信長を恨んでいたがゆえに起こした事件であっても、おかしくなかったのかもしれません。
関わった人物
では、「本能寺の変」に関わった主な人物について、紹介します。
織田方
・織田信長
尾張国(現在の愛知県)出身の戦国大名。光秀の恨みを買ったとされ、本能寺に滞在しているところを襲われて、自害に追い込まれる。
・織田信忠
岐阜城主を務めた、信長の長男。「本能寺の変」では、二条御所にいたところを光秀に襲われ、自害に追い込まれる。
・徳川家康
岡崎城主・松平広忠の子として生まれ、幼少期を織田氏・今川氏の人質として過ごす。「本能寺の変」で信長が殺害されたことを知り、堺からすぐさま撤退し、三河へと帰った。
明智方
・明智光秀
美濃国(現在の岐阜県)出身の戦国大名。信長に対して不満を抱いていたとされ、主君である信長を、本能寺にて滅ぼした。
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