はじめに-「本能寺の変」とはどんな出来事だったのか

戦国時代最大の事件として知られる「本能寺の変」。天正10年(1582)6月2日、明智光秀が主君・織田信長を京都・本能寺で急襲し、信長が自害した出来事です。信長は、本能寺の変の3か月前に武田氏を滅ぼし、天下統一へと駒を進めている最中でした。

この事件は、戦国時代の流れを一変させました。

なぜ光秀が信長に反旗を翻したのかについては諸説あり、現在でも議論はさかんです。この記事では、本能寺の変が起こった背景や経緯、関わった人物、そして事件が日本史に与えた影響を解説します。

旧本能寺跡(京都市)。
旧本能寺跡(京都市)。今は石碑が建つのみ。

「本能寺の変」はなぜ起こったのか

「本能寺の変」の直接のきっかけは、織田信長が羽柴秀吉からの援軍要請を受け、中国地方へ出陣しようとしていたことでした。

当時、秀吉は備中(現在の岡山県西部)・高松城で毛利氏と対峙していました。毛利方の大軍が迫っているとの急報を受けた信長は、自ら出陣することを決意します。そして、徳川家康の接待役(饗応役)を務めていた明智光秀にも中国方面への出陣を命じました。

ところが、光秀は中国方面ではなく京都へ軍を進め、6月2日未明、本能寺を急襲します。ほぼ無防備だった信長は近臣の森乱らと応戦しましたが、ついに自害しました。また、長男・織田信忠も二条御所で討たれます。

では、なぜ光秀は主君に反旗を翻したのでしょうか? この点については現在もわからないままです。

古くから語られてきたのは、信長から度重なる屈辱を受けたという「怨恨説」です。徳川家康接待役を途中で解任されたことも、その一つとして語られてきました。しかし、こうした逸話の多くは後世の軍記物などによるもので、史実として確認できるものばかりではありません。

そのほかにも、政権奪取説、保身説、陰謀説などさまざまな説があります。

現在の研究では、いずれか一つの説だけで説明できるような決定的な証拠は見つかっておらず、動機はなお歴史上の大きな謎とされています。一方で確実にいえるのは、信長の有力家臣たちは各地へ出陣中で、京都近郊に大軍を率いていたのが光秀だけだったという、絶好の機会が訪れていたことです。

関わった人物

では、「本能寺の変」に関わった主な人物について、紹介します。

【織田方】

織田信長

織田信長
織田信長

天下統一目前まで勢力を拡大した戦国大名。

武田氏を滅ぼした直後、中国方面で戦う秀吉を支援するため上洛し、本能寺に宿泊していました。光秀の急襲を受けると、森乱ら近臣とともに奮戦しましたが、寺に火が放たれ、自害しました。

織田信忠

織田信忠

信長の嫡男で、織田家の後継者。本能寺の変当日は京都の二条御所に入り、防戦の末に自害しました。

信長と信忠が同時に失われたことで、織田政権は一気に混乱へ陥ります。

羽柴秀吉

豊臣秀吉
豊臣秀吉

中国地方攻略を任され、備中・高松城を包囲していました。本能寺の変を知ると、その事実を秘したまま毛利氏と講和を成立させます。すぐさま軍を京都へ引き返す「中国大返し」を敢行し、山崎の戦いで光秀を討ちました。

この迅速な判断が、秀吉が天下人への道を歩み始める最大の転機となります。

【明智方】

明智光秀

明智光秀

本能寺の変を起こした武将。もともとは政治・軍事の両面で信長を支え、丹波(現在の京都府の中部と兵庫県の東部) 平定など大きな功績を挙げました。しかし、突如信長に反旗を翻します。

変後は天下取りを目指しましたが、多くの有力武将が味方をせず、わずか11日後の山崎の戦いで敗れました。

【その他】

徳川家康

徳川家康
徳川家康

三河(現在の愛知県東部)の大名で、信長の同盟者。事件直前の日まで安土で信長のもてなしを受けていました。本能寺の変を知ると、堺から危険な伊賀越えを経て三河へ帰還します。

「本能寺の変」の内容と結果

天正10年(1582)5月、織田信長は、備中高松城を包囲していた羽柴秀吉から「毛利氏の大軍が迫っている」との急報を受け、自ら中国方面へ出陣することを決めました。そして、徳川家康の接待役を務めていた明智光秀にも、急きょ出陣を命じます。

光秀は近江(現在の滋賀県)坂本城へ戻った後、丹波亀山城へ入り、5月27日には愛宕(あたご)山に参籠し、二度、三度と神籤(みくじ)をとったといいます。

翌28日には里村紹巴(さとむら・じょうは)らと百韻連歌を興行し、「時は今 あめが下しる 五月哉」と詠みました。光秀の謀叛の意図は、このときに決したとされています。

中央の一番高い山が愛宕山
中央の一番高い山が愛宕山。写真下部下に流れている川は保津川で、鉄橋は山陰本線のもの。

6月1日夜、光秀は約1万3千の兵を率いて亀山城を出陣します。兵たちには中国方面へ向かうと伝えられていましたが、老ノ坂を越えると軍勢は東へ進路を変え、一気に京都へ向かいました。

翌2日未明、本能寺は光秀軍に包囲されます。

この日、信長は近臣のみを従えて本能寺に滞在していました。前夜は茶会や囲碁を楽しみ、深夜に就寝したと伝えられています。夜明け前、寺の周囲が騒がしくなったものの、当初は「下々の者の喧嘩だろう」と考えていたとされます。しかし、鉄砲の音を聞いて初めて光秀の謀反を悟りました。

信長は自ら弓や槍を手に取り、森乱ら近臣とともに必死に応戦します。しかし、多勢に無勢でした。本能寺に火が放たれると、信長は炎に包まれた堂内で自害し、49年の生涯を閉じます。

一方、嫡男・織田信忠は、京都・妙覚寺から二条御所へ移って抗戦しました。誠仁親王らを避難させた後、最後まで戦い抜き、自害します。こうして織田政権の中枢は、一日で失われることになりました。

光秀はその日のうちに近江方面へ向かい、瀬田橋を焼き落とした山岡景隆の抵抗を受けながら坂本城へ入り、さらに安土城を接収します。その後は京都へ戻り、公家や寺社へ金銀を献じ、京都の町衆には地子免除を約束するなど、新たな政権の樹立を目指して人心掌握に努めました。

坂本城跡に建つ、明智光秀公像
坂本城跡に建つ、明智光秀公像。

「本能寺の変」、その後

本能寺の変によって、約15年にわたり天下統一を目前まで進めてきた織田信長の政権は、一夜にして崩壊しました。

その後、明智光秀は新たな政権を築こうとしますが、その構想は思いどおりには進みませんでした。光秀が期待していた細川藤孝・忠興父子、筒井順慶、高山右近、中川清秀ら有力武将の多くが味方しなかったのです。

その一方で、備中・高松城にいた羽柴秀吉は、信長の死を知ると驚くべき速さで行動します。毛利氏との講和を成立させると、その事実を伏せたまま軍を京都へ向けて反転させました。世にいう「中国大返し」です。

山崎合戦之地
山崎合戦之地

6月13日の山崎の戦いで光秀を破ると、「主君の仇を討った武将」として一躍名声を高めます。この勝利は、単に光秀を討ったというだけでなく、織田家中で秀吉が主導権を握る決定的な契機となりました。

その後の清洲会議では織田家の後継問題を巧みに主導し、翌年の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家を破ります。さらに、小牧・長久手の戦いを経て全国の大名を従え、天下統一へと歩みを進めました。

本能寺の変は織田政権の終焉を意味すると同時に、豊臣政権誕生への幕開けとなった歴史の大転換点だったのです。

まとめ

本能寺の変は、天正10年(1582)6月2日、明智光秀が主君・織田信長を討った日本史最大級の事件です。

その動機については、怨恨説や政権奪取説、保身説など数多くの説が唱えられていますが、現在でも決定的な結論は出ていません。一方で、信長の有力家臣が全国各地へ出陣し、京都近郊に光秀の軍だけが存在していたという絶好の機会があったことは、多くの史料から確認できます。

そして、この歴史的大事件を最も巧みに生かしたのが羽柴秀吉でした。備中・高松城で毛利氏と講和を結び、中国大返しを成功させ、山崎の戦いで光秀を討ったことで、「信長の後継者」として一気に頭角を現します。

もし本能寺の変がなければ、豊臣秀吉が天下人となる歴史も大きく変わっていたかもしれません。

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、この激動の11日間と、それを転機に歴史の表舞台へ躍り出る秀吉・秀長兄弟の姿が、物語最大の見どころの一つとなるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

Instagram:@kyoto_monokaki note:@kyoto_monokaki
Facebook:@kyotomedialine

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

関連記事

ランキング

サライ最新号
2026年
8月号

サライ最新号

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Youtube
  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

市毛良枝『百歳の景色見たいと母は言い』

花人日和(かじんびより)

和田秀樹 最新刊

75歳からの生き方ノート

おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店
おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店