この出来事の内容と結果
天正10年(1582)3月、甲斐国(現在の山梨県)の武田氏を滅ぼした信長は、拠点である安土(現在の滋賀県にあった町)の基盤を固めていました。戦国最強と呼び声高かった武田氏を滅亡させたことで、信長の武名はさらに広がりを見せます。
その後、東国における権力を掌握した信長は、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山県)の毛利氏と交戦。さらに、四国の長宗我部氏とも対立することに。西国を支配下に置くことで、天下統一を成し遂げようとしたのです。
信長は、羽柴(豊臣)秀吉に中国征伐を、三男の信孝(のぶたか)に四国征伐を命じました。そして、中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉からの援軍要請を受け、信長は京都四条の本能寺へ移動することに。この時、信長は光秀にも、中国出陣を命じました。しかし、彼が出陣した先は、信長のいる本能寺でした。
光秀は、軍備を整えるために、居城である坂本城(現在の滋賀県大津市にあった城)に戻ります。そして、天正10年(1582)6月1日、光秀は家臣と謀って京都の亀山城から出陣し、本能寺を襲撃したのです。
翌日未明、光秀率いる1万3000人の軍勢は、本能寺を完全に包囲しました。対する信長は、護衛として同行させた家臣らも合わせて150人ほど。槍や弓などの武器しかなく、用意周到な光秀軍を前に、なす術もありませんでした。
もはやこれまでと悟った信長は、寺に火を放って、自害して果てました。「天下布武」を掲げ、覇道の道を突き進んだ信長。念願の天下統一を目前にして、惜しくも49年の生涯に幕を閉じることとなったのです。
また、信長殺害後、光秀は彼の長男・信忠も襲撃しました。信忠は、二条御所に立てこもって光秀軍と戦いますが、御所に火を放たれたことで、自害を決意。26年の短い生涯に、幕を閉じることとなりました。
「本能寺の変」、その後 -その時、家康は?
光秀が信長を殺害した「本能寺の変」は、周囲を震撼させました。信長の勧めで大坂の堺を見物していた家康は、この事件を知るや、すぐに三河へ帰ることを決意。これが、「神君伊賀越え」と呼ばれる、家康の撤退劇です。
伊賀越えの際には、「徳川四天王」として知られている、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政などの有力武将らも同行していました。もし、途中で山賊などに襲われていたら、家康がのちに天下統一を果たすことはなかったかもしれません。伊賀越えは、「三河一向一揆」や「三方ヶ原の戦い」に並ぶ、彼の三大危機の一つとされています。
また、同じく信長の死を知った秀吉は、交戦中だった毛利氏と和睦し、凄まじいスピードで京都に引き返しました。そして、天正10年(1582)6月13日、「山崎の合戦」にて、光秀に打ち勝ちます。敗走した光秀は、途中で農民に刺殺されたといわれています。
その後、主君である信長の敵討ちに成功したことで、織田家における秀吉の発言力は強まっていきました。信長亡き後、秀吉は実質的な彼の後継者として、さらに勢力を拡大することとなったのです。
まとめ
「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」。信長が好きだった幸若舞(こうわかまい)の『敦盛』に登場する一節です。この世での50年は、天上界にとっては儚いものであるという意味ですが、信長は死の直前に、この一節を謡ったと言われています。
ほんの一瞬の隙を突かれ、儚く散った信長。「本能寺の変」は、順風満帆な時こそ、慎重になるべきであるということを考えさせられる事件ではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『旺文社日本史事典』(旺文社)