はじめに-「富士遊覧」とはどんな出来事だったのか
「富士遊覧」とは、天正10年(1582)に行われた、信長と家康の凱旋旅行のことです。同年3月、武田討伐を推し進めた信長は、武田勝頼を自害に追い込み、武田氏を滅亡させることに成功しました。武田氏滅亡後、信長は旧武田領を分割。その一部である駿河国(現在の静岡県中部)を家康に与えることに。
これを受けて家康は、信長に与えられた駿河国と甲斐国(現在の山梨県)を結ぶ街道の整備に取りかかります。そして、信長はこの街道を通って駿河に向かい、その後、東海道を通って安土城に向かうことにしたのです。
信長の華々しい凱旋旅行である「富士遊覧」。家康も信長に同行し、各地で手厚く接待しました。「富士遊覧」がどのようなものであったかについて、史実をベースに解説していきます。
目次
はじめに―「富士遊覧」とはどんな出来事だったのか
「富士遊覧」はなぜ行われたのか
関わった人物
「富士遊覧」の内容と結果
その後
まとめ
「富士遊覧」はなぜ行われたのか
念願叶って、武田氏を滅亡させることができた信長。戦国最強と名高い武田氏の存在は、信長や家康にとって、最大の脅威だったと言えるでしょう。特に、家康は勢力拡大をかけて、最前線で武田氏と戦い続けていました。そんな家康を労うため、信長は駿河国を家康に与えたのです。
家康は、甲斐国と信長に与えられた駿河国を結ぶ街道に橋をかけたり、宿泊所や休憩所を設置するなど、大規模な整備にあたりました。そして、信長がこの街道を通って、甲斐国から駿河国に向かうということを受け、家康は信長を手厚くもてなすことになったのです。
関わった人物
では、「富士遊覧」に関わった主な人物について、紹介します。
織田信長
尾張国(現在の愛知県)出身の戦国大名。念願の武田討伐を果たし、意気揚々と安土城へ凱旋した。
徳川家康
岡崎城主・松平広忠の子として生まれ、幼少期を織田氏・今川氏の人質として過ごす。信長の凱旋旅行に同行し、彼をもてなすために全力を尽くした。
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