はじめに-「明智光秀、饗応役解任事件」とはどんな出来事だったのか
「明智光秀、饗応役解任事件」とは、織田信長が明智光秀を饗応役(きょうおうやく、来客を接待する役職)から解任した出来事を指します。天正10年(1582)、念願の武田討伐を果たした信長。意気揚々と安土城に凱旋した信長は、同じく武田氏に苦しめられてきた同盟相手・徳川家康を労うため、駿河国(現在の静岡県中部)を与えることにしました。
その後、家康は駿河国を与えてくれた信長にお礼をするため、安土城を訪れることになりました。これを受けて、信長は家康をもてなす準備を始めます。この時、食事などを提供して家康を接待する饗応役として、光秀が抜擢されたのです。
しかし、その役を途中で解任されることになります。そのため、この饗応役解任は、古くから「光秀が信長に恨みを抱いたきっかけ」として語られてきました。
ただし、史実としては確証のない部分も多く、後世の軍記や歌舞伎によって脚色された面もあります。
本記事では、史実と伝承を分けながら、この事件の背景と意味を見ていきましょう。
「明智光秀、饗応役解任事件」はなぜ起こったのか

天正10年(1582)3月、織田信長は武田勝頼を滅ぼし、甲斐・信濃方面で大きな勝利を収めました。その後、信長は安土に徳川家康を招き、もてなしの席を設けます。
このとき、饗応役を命じられたのが明智光秀でした。光秀は京都の公家や寺社との交渉、儀礼、政務にも通じた教養人であり、接待役にはふさわしい人物だったと考えられます。
ところが、5月17日、備中高松城を包囲していた羽柴秀吉から、毛利輝元の大軍が迫っているため援軍を求める急報が届きました。信長は自ら中国へ出陣することを決め、光秀にも急ぎ出陣を命じます。
このため、光秀は家康饗応の役を途中で解かれたとされています。
後世には、「饗応の料理に問題があった」、「信長が光秀を叱責した」、あるいは「侮辱した」といった逸話が語られます。しかし、これらは軍記や歌舞伎などで広まった要素も多く、史実として断定することはできません。
関わった人物
この出来事に関わった主な人物について、ご紹介します。
織田信長

尾張(現在の愛知県西半部)出身の戦国大名。天正10年(1582)には武田氏を滅ぼし、天下統一に大きく近づいていました。
安土で徳川家康をもてなした後、備中で毛利氏と対峙する秀吉を救援するため、中国出陣を決意します。その際、光秀を饗応役から中国出陣へと転じさせました。
明智光秀

信長に仕え、京都政務や丹波(現在の京都府の中部と兵庫県の東部) 攻略などで大きな功績を挙げた武将です。和歌・連歌・茶の湯にも通じた教養人でした。
家康饗応役を命じられた後、中国出陣を命じられ、丹波亀山城へ戻ります。その後、軍を率いて京都へ向かい、本能寺の変を起こしました。
徳川家康

三河(現在の愛知県東部)・遠江 (現在の静岡県西部)などを支配した大名で、信長の重要な同盟者です。武田氏滅亡後、信長の招きで安土を訪れました。
本能寺の変の時、家康は堺見物の途中にあり、変を知ると伊賀越えによって三河へ逃れました。
羽柴秀吉

中国攻めを任され、備中(現在の岡山県西部)高松城を包囲していた武将です。毛利軍の来援を受け、信長に救援を求めました。
この急報が、光秀の饗応役解任と中国出陣命令につながります。結果として、本能寺の変後、秀吉は中国大返しで畿内へ戻り、山崎の戦いで光秀を破りました。
森乱

後世の歌舞伎などでは、信長の命で光秀を鉄扇で打つ人物として描かれることがあります。ただし、これは史実として確認されたものではなく、光秀の怨恨を強調するための劇的な演出と見るべきでしょう。
「明智光秀、饗応役解任事件」の内容と結果
天正10年(1582)5月14日、光秀は安土を訪れた徳川家康の接待役を信長から命じられました。
しかし、5月17日、備中・高松城を包囲していた秀吉から救援要請が届きます。信長は自ら中国へ向かうことを決め、光秀にも出陣を命じました。
これにより、光秀は家康饗応の役を途中で解かれます。
後世の軍記では、「饗応の魚が腐っていたため信長が怒った」、「光秀が侮辱された」、「草履で料理を踏み散らされた」、「森乱に鉄扇で打たれた」…など、さまざまな逸話が語られてきました。
また、歌舞伎『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』では、信長にあたる小田春永が、明智光秀にあたる武智光秀を馬盥(ばだらい、馬を洗うための大きなたらいのこと)で侮辱する場面が有名です。こうした作品によって、光秀は「信長に屈辱を受け、ついに謀反を決意した人物」として広く知られるようになりました。
ただし、実際に光秀がどのような屈辱を受けたのか、また饗応役解任が本能寺の変の直接原因だったのかは、未だはっきりとはしていません。
史実として確認できるのは、光秀が家康饗応役を務め、その後、秀吉救援のため中国出陣を命じられたこと。そして、その出陣の途上で軍を京都へ向け、本能寺を襲ったことです。
その後
光秀は5月26日に坂本城を出て、丹波亀山城へと入りました。27日には愛宕(あたご)山に参詣し、28日には連歌会を催したとされます。
そして6月1日夜、光秀は「備中へ出陣する」として軍を動かしました。しかし、老ノ坂を越えた後、進路を中国方面ではなく京都へ向けます。
6月2日未明、光秀は本能寺を急襲し、信長を自害に追い込みました。さらに二条御所にいた織田信忠も攻め、自害させます。これが本能寺の変です。
しかし、光秀の天下は長く続きませんでした。備中高松城から急ぎ戻った秀吉は、6月13日の山崎の戦いで光秀を破ります。光秀は敗走中、小栗栖で討たれたとされています。
まとめ
明智光秀の饗応役解任事件は、本能寺の変の原因を考える上で、古くから注目されてきた出来事です。
確かに、光秀が家康接待の役を解かれ、中国出陣を命じられたことは、本能寺の変へ向かう流れの中で重要な要素の一つだといえるでしょう。
しかし、光秀が信長に侮辱されたという話や、それが謀反の直接原因だったという見方には、後世の軍記や歌舞伎による脚色も多く含まれています。
本能寺の変の原因は、怨恨、将来への不安、政権欲、信長との関係悪化など、さまざまに語られてきましたが、未だ確かな結論は出ていません。
だからこそ、この饗応役解任事件は、史実と伝承の間にある、非常に興味深い出来事だといえるのでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
『新版 歌舞伎事典』(平凡社)
『新版 日本架空伝承人名事典』(平凡社)











