家康への臣従から一揆で殺されるまで
武田氏の家臣であった梅雪ですが、やがて武田氏から離反していきます。この時期、天正3年(1575)の長篠の戦いで織田信長に敗れ、武田氏は弱体化していました。
天正10年(1582)、信長の甲州侵攻によって武田氏が滅亡する直前、梅雪は家康に降ります。その後、家康とともに安土城で信長に謁見し、ついで泉州・堺を遊覧しました。しかし、その最中に本能寺の変が起きます。
帰国を図りますが、宇治田原で一揆に巻き込まれて亡くなりました。この出来事には諸説あり、梅雪は一行の殿(しんがり)をつとめ、家康と同じ道筋で帰国しようとしたとも。また、明智光秀から家康征討の命を受けた土民たちが、梅雪を家康と間違えて誤射したなどとも言われています。他にも、梅雪の従者が道案内人を殺したことから、土民により殺されたという説も。いずれにせよ、家康に従ってから1年もたたないうちに梅雪はその生涯を終えたのでした。42歳でした。
その後、梅雪の子である勝千代(かつちよ)が穴山家の当主となります。しかし、勝千代は天正15年(1587)に16歳で没し、穴山家は断絶しました。
残された梅雪の妻・見性院(けんしょういん)は、家康の保護を受け、江戸に移ります。その後、徳川秀忠(ひでただ)の子・幸松(ゆきまつ)を養育し、元和8年(1622)に世を去りました。なお、幸松は会津松平家の藩祖となり、名君として名高い保科正之(ほしな・まさゆき)のことです。
まとめ
梅雪は武田一門として活躍しながらも、最後は家康に従いました。家や自分の身を守るために、同じ武田一族の主君・勝頼から離れていったのには、やむを得ない事情もあったのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)