はじめに-柴田勝家とはどんな人物だったのか

柴田勝家(かついえ)は、織田信長の家臣の武将です。信長の妹・お市と結婚したことでも有名で、信長亡き後は豊臣秀吉とライバルの立ち位置で描かれます。また、武勇に優れた人物とされ、勇敢な戦いぶりを表し「鬼柴田(おにしばた)」「鬼家老」と恐れられたとも語られます。その強烈な異名から、無骨で力強い印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

では、実際の柴田勝家はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

NHK大河ドラマ『どうする家康』では、秀吉とは水と油の荒武者である織田家家臣(演:吉原光夫)として描かれます。

目次
はじめに-柴田勝家とはどんな人物だったのか
柴田勝家が生きた時代
柴田勝家の足跡と主な出来事
まとめ

柴田勝家が生きた時代

柴田勝家は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた武将です。織田家が治める尾張国愛知郡に生まれた勝家は、織田家に仕えることとなります。それは折しも、信長が台頭していく時期と重なりました。宿老として信長に仕えた勝家の生涯は、力をつけた豊臣秀吉と対立したことで悲しき最期を迎えることとなります。

柴田勝家の足跡と主な出来事

柴田勝家は、生年不詳で、天正11年(1583)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

信長の弟に仕える

柴田勝家は、尾張国愛知郡に生まれました。若い頃から織田家の家臣として仕えます。初めは信長の弟・信行(のぶゆき)に仕えており、信長とは敵対関係にありました。弘治2年(1556)、信行は兄・信長に反逆し戦いを挑みますが、大敗。信行を見限った勝家は、謀反の計画を信長に密告したとされます。

柴田勝家像

信長の家臣となる

その後、信長の家臣となると、奉行人として畿内・近国における戦闘に参加しました。元亀元年(1570)に六角氏と戦って近江・長光寺(ちょうこうじ)に籠城した際には、飲料水を貯えた水甕(みずがめ)を叩き割って出撃。決死の覚悟を示し勝利を収めたことから「甕破(わ)り柴田」の異名を取ったという伝説もあります。

太平記英勇伝十三:柴田修理進勝家

天正3年(1575)9月に、信長は越前(えちぜん)を平定。越前の支配を委ねられた勝家は、北ノ庄(福井市)に移りました。ただ同時に、前田利家(としいえ)・佐々成政(さっさなりまさ)・不破光治(ふわみつはる)の三人が目付として配置されます。「府中三人衆(ふちゅうさんにんしゅう)」と呼ばれる三人による、相互監視の態勢が取られたのでした。これは、織田氏の大名支配の構造を示すものと解されています。

本能寺の変後、秀吉と対立する

天正8年(1580)、勝家は加賀の一向一揆を事実上平定。その後も、信長の北国征服戦争の中心となり、越後の上杉氏と対峙しました。そんな中、天正10年(1582)6月「本能寺の変」が起こります。勝家は上杉氏の追撃を警戒し、居城の越前・北ノ庄城(きたのしょうじょう)の守りを固めるに至り、上洛はできませんでした。これにより、明智光秀追討に遅れを取り、秀吉に主導権を奪われる結果となります。

信長の後継者として勝家が擁立したのは、信長の三子・神戸信孝(かんべのぶたか)でした。ここで、三法師(さんぼうし=信長の嫡孫・秀信)を押す秀吉と対立。「清洲会議」の結果、後継者は秀吉が擁立する三法師に決定します。勝家には秀吉の旧領である近江・長浜が与えられましたが、政権の座から遠のけられました。また、大徳寺で催された信長の葬儀にも出席できないよう仕向けられ、秀吉との対立関係は深まったとされます。

信長の妹・お市と結婚。次ページに続きます

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